「辞めてしまっていいのか…」残る未練
「挫折を乗り越えるたびに人は一段と強くなれる」
高校3年春、今川優馬は春の北海道大会直前の青森遠征で左手中指の中手骨を骨折した。
当時の彼にとって、それは絶望的な出来事であり、恨めしい目でグラウンドにいるチームメイト達を見つめていた時期もあったと言う。
だが、人の運命とはおかしなもので、もしも、あのとき、あの出来事がなかったら、今の彼は存在しないんじゃないかと、彼の半生を聞きながら思った。
ハングリー精神をバネに育った男。今川にはそんな言葉がピッタリと思えるからだ。
元々、彼は高校で野球を辞める予定だった。卒業後は、理学療法士やスポーツトレーナーといった道に進むための勉強をし、将来は選手をサポートする側として野球に携わっていきたいと考えていた。
今でこそプロのスカウトも注目する社会人野球屈指のスラッガーとして紹介されることが多い今川だが、当時の彼はどこにでもいる普通の高校球児。卒業後の夢を現実のものとするため、高校では理系のクラスを選択していたというのだからかなりの本気度だ。
それが高校3年の春、レギュラー獲得目前といったところで怪我に見舞われ、気持ちに変化が生じた。高校で完全燃焼し切れない自身の野球生活に未練が出て来たのだ。
リハビリで自分と向き合う時間が増えてから、様々なことを考えた。
系列の東海大学の内部進学は5月の段階で締め切られ、野球を続けるには他大学を受験するか、東海大のAO入試を受けるかの二択しかなかった。
左手中指の骨折は予定よりも1カ月早く完治。夏の南北海道大会にもなんとか間に合い、背番号16を付けて夏の南北海道大会にも出場した。チームではスーパーサブ的なポジションを任された。
地区大会では決勝打を放ち、チームの勝利に貢献。高校入学当初の目標に掲げていた甲子園出場も果たし、代打ながら甲子園でヒットも打った。
「十分だろ」
他の誰かならきっとそう思うかもしれない。けれども今川の中では気持ちの中で整理しきれない何かがずっと引っ掛かっていた。
「このまま野球を辞めてしまっていいのか…」
ふとしたときにそんなことを考えた。
「プロを目指して良い」恩師、家族の後押し
そんな今川の気持ちをまるで察していたかのように東海大四(現在の東海大札幌)の大脇英徳監督は、進路相談の席で彼にこんなことを言った。
「お前はプロを目指しても良いんだぞ!」
思ってもいなかった言葉だった。
「高校時代にレギュラーにもなれなかった自分がプロに行くなんて…」
そんなことは想像もしていなかったし、自分の口からはとても恥ずかしくて言えなかった。
だが、大脇監督の見立ては違った。
日頃の野球に取り組む姿勢や感性。高校生活の最後に来てようやく芽が出始めた彼の才能。それらをこのまま眠らせるには惜しいと感じていた。
進路相談に同席した両親も、高校野球で完全燃焼しきれなかった息子の想いを汲み取った。
「野球を続けたいなら、迷わずやれるところまでやってみたらいいよ」
そんな言葉で後押しした。
高校3年間、ずっと憧れ続けた東海大の縦縞のユニフォーム。そのユニフォームを着て、まだ戦いたい。そしてお世話になった高校の指導者や両親の目の前で、自分が活躍する姿を見せて恩返しがしたい。そんな想いが溢れてきた。
そして彼は選ぶ。東海大札幌キャンパスへの進学を。
大学進学、運命の出会い
その後、今川は一般受験で同大学に合格。当初の予定通り硬式野球部の門を叩いた。
しかし、乗り越えなければいけない課題は、野球以外の部分にもあった。
たとえば学費だ。6人兄弟の長男である今川は、少しでも両親の負担を軽くしようと、大学の授業、そして練習の合間をぬって近所の飲食店でアルバイトを始めた。
それでも野球を続けられている環境が有難くて仕方がなかった。グラウンドに出れば自然と笑顔がこぼれる。現在の今川の原点だ。
そんな今川に運命的な出会いが訪れる。当時、コーチを務めていた岩原旬との出会いだ。
岩原は今川にこれまでの指導者とはまるで違うアプローチをしてきた。
「今までの指導者に教えてもらったことがないような、初めて聞く話ばかりでした。たとえば(バットを)下から出してみようとか」
最初は「何を言っているの?この人?」と、疑問を持った。高校までの今川はバント、小技を得意とする典型的な繋ぎのバッター。
「中学までショートで中日の井端選手に憧れていたのもあったので。井端選手と言ったらバントとか右打ちのスペシャリストじゃないですか。ああいう選手になりたいなというのもありました」
それを180度方向転換して岩原は「ホームランを狙え」と言って来る。
「だから(岩原コーチの言っていることも)最初は『えっ?』って感じでしたし、戸惑いもありました。ただ、話を聞いていくうちに、『あっ、こんなのもあるんだ』って発見がどんどん増えて行ったんです。それを実際に試してみると、飛距離もアップして、ホームランが打てるようにもなった。そこで『バッティングってこんなに楽しいんだ』って気付かされたんです」
プロ志望届、そして更なる試練
日々の練習と研究を重ね、岩原の教えを徐々に自分のモノにしていった今川は、東海大札幌キャンパスでも徐々に頭角を現すようになる。
3年春の全日本大学選手権では東洋大の飯田晴海(現日本製鉄鹿島)から本塁打を放つなど、自チームのベスト4に貢献。その秋の札幌学生野球連盟のリーグ戦でも2本塁打を放ち、打率3割1分0厘で初の打撃10傑入りを果たした。
4年春になると更に輝きを増し、打率4割6分4厘で初の首位打者を獲得。さらには5本塁打、10打点を記録してベストナインと特別賞も受賞。秋のリーグ戦でも打率3割8分9厘、4本塁打、12打点をマークし、リーグを代表する野手に成長した。
今川は高校3年の進路相談で自分の可能性を信じてくれた東海大四・大脇英徳監督の期待に応えるように、その秋、プロ志望届を提出した。ここまで自分のやりたいように育ててくれた両親への感謝の気持を形にするには、育成枠でもここでプロ入りするのが一番だと思っていたからだ。
しかし、運命はそんな今川に更なる試練を与える。
2018年10月25日、プロ野球ドラフト会議。
今川優馬の名前は育成枠も入れた104名の中に入ることはなかった。
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