1965年に重松森雄が日本男子最後の世界新
長らく低迷していた日本の男子マラソンが東京オリンピックを前にして活気付いてきた。大迫傑が東京マラソンで激走し、最後の五輪代表を射止めて涙を流したのは記憶に新しい。
バルセロナ五輪の森下広一以来のメダルも期待される男子マラソンの日本記録は、どのように変遷してきたのだろうか。歴史を振り返ってみたい。
1911年、NHK大河ドラマ「いだてん」でも描かれた金栗四三が、25マイル(40.225キロ)で行われたレースで、当時の世界記録を27分も短縮する2時間32分45秒で走り、1935年には孫基禎、鈴木房茂、池中康雄らも相次いで世界記録を更新した。
1963年2月に行われた別府大分マラソンで、寺沢徹が2時間15分15秒8の世界新。翌1964年の東京オリンピックで期待されたが、銅メダルの円谷幸吉、8位の君原健二に及ばず15位に終わった。
1965年には重松森雄が、ロンドンで行われたポリテクニック・ハリアーズ・マラソンで2時間12分00秒で優勝。前年に東京五輪でアベベ・ビキラが作った世界最高記録を更新し、2020年に至るまで日本人男子では最後の元世界記録保持者となった。
その後、1967年に佐々木精一郎が2時間11分17秒、3年後の福岡国際で宇佐美彰朗が2時間10分37秒8と日本記録を更新するが、世界との差は少しずつ開いていった。
デッドヒート繰り広げた瀬古利彦と宗兄弟
昭和50年代に入るとスターランナーの出現によってマラソン界は再び隆盛する。1978年、別府大分で宗茂が2時間9分5秒6の日本新記録。初めて2時間10分を切る当時世界歴代2位の好タイムをマークし、双子の弟・猛とともに一躍、時の人となった。
そして宗兄弟と何度もデッドヒートを繰り広げたのが瀬古利彦だ。1979年の福岡国際では宗兄弟との激しい駆け引きを制して優勝。3人揃ってモスクワ五輪の代表となったが、日本のボイコットにより出場は果たせなかった。
1981年のボストンマラソン優勝などの実績を積んだ瀬古は、1983年の東京国際で日本人初の2時間8分台となる2時間8分38秒で優勝。日本記録更新だけでなく、当時世界歴代3位の好タイムでロサンゼルス五輪の金メダル候補に名乗りを挙げた。
しかし、1984年のロサンゼルス五輪で瀬古は14位に終わると、替わって現れたのが身長180センチの大型ランナー、中山竹通だった。1985年のワールドカップ広島大会で2時間8分15秒の日本新(当時世界歴代3位)。1988年のソウル五輪では金メダルを期待されたが、惜しくも4位だった。
ソウルの2年前、1986年には北京国際で児玉泰介が2時間7分35秒の日本新記録(当時世界歴代3位)を樹立している。この頃まで日本のトップレベルの選手と世界との差は小さかったが、次第に大きくなっていく。
16年ぶりに記録更新した設楽悠太、2時間5分台を叩き出した大迫傑
児玉泰介が日本新記録を樹立してから次に更新されるまで13年の歳月が過ぎていた。1999年のベルリンマラソンで、犬伏孝行が2時間6分57秒で2位。日本人で初めて2時間6分台をマークした。
翌2000年の福岡国際では藤田敦史が2時間6分51秒と6秒更新、さらに2002年のシカゴマラソンでは高岡寿成が当時世界歴代4位の2時間6分16秒で3位に入り、日本記録を更新した。再び世界との差を縮め、その後15年以上も更新されない日本記録になるとは、この時、誰も予想できなかった。
長い低迷期を経た2018年2月、東京マラソンで16年ぶりに記録を更新したのが設楽悠太だ。日本人トップの2位でゴールし、2時間6分11秒と高岡のタイムを5秒上回った。
さらに同年10月のシカゴで大迫傑が2時間5分50秒で3位に入り、日本で初めて2時間6分を切った。大迫は2020年3月の東京マラソンで2時間5分29秒と自身の記録を更新。東京オリンピックの代表の座を手にしている。
2021年2月のびわ湖毎日マラソンでは、鈴木健吾が初めての4分台となる2時間4分56秒で優勝。大阪マラソンと統合される同大会の最後の開催で見事に日本新記録を樹立した。
低迷していた日本マラソン界は、報奨金制度の導入やマラソングランドチャンピオンシップ(MGC)の創設などによって、活気を取り戻しつつある。ケニア、エチオピア勢が席巻する世界トップレベルとの差は小さくないが、開催国のアドバンテージを活かし、ドラマティックな展開を期待したい。
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