北京が最終目標だった
競技を終えた宏実は泣きじゃくっていた。
「こんな低い記録で恥ずかしい。今までやってきた中で一番悔しい」
最後は嗚咽をもらした。
泣きじゃくる理由はあった。中学3年で重量挙げを始めたときから、北京五輪が最終目標だと、二人三脚でやってきた父義行とともに決めていたからだ。
宏実は北京五輪への意気込みを聞かれると、いつもこう答えていた。
「思いっきり勝負する」
父義行は宏実の体が壊れないようにコントロールしながらやってきた。減量は厳しいし、過度なトレーニングはケガを招く。だから、2004年のアテネ五輪でさえ通過点と思ってきた。そのアテネは9位。順調に階段を一つ一つ上がってきたはずだった。
それまでずっと限界を超えさせなかった父義行は北京に向けて、「今回だけは、ぶっ壊れてもいいから勝負をさせたい」と話していた。でも、最終目標と位置づけた場で限界に達することはなかった。
名門の重圧がのしかかる
宏実との戦いは、バーベルだけでなかった。北京五輪の1カ月前、母に打ち明けていた。
「最近眠れないの」
2時間おきに目が覚めたのだという。夢の中でもバーベルを持ち上げていた。そこには、金メダリストの伯父、銅メダリストの父という名門三宅家の重圧があった。
練習も最悪の状態だった。自己ベストの80%ぐらいの重さでも落としてしまい、練習場の片隅で泣いた。毎日つけていた練習ノートも空白が続き、つらさが増すからと、父でコーチの義行氏と話すこともなくなっていた。
筋肉がそげ落ちる
北京の試合当日、計量では47・35キロだった。出場14人中3番目の軽さ。父義行が「アテネ以降では一番軽い」という体重だった。
当時の宏実は47・60~47・70キロがベストだった。その差わずか数百グラム。だが、研ぎ澄まされたアスリートにとって、この数百グラムが命取りだった。筋肉がそげ落ちてしまった。本来のパワーが出ない。結果的に1回目の試技の重量を下げざるを得なかった。
競技の結果、同じ記録なら体重が軽い方が勝つ。だから、意図的に体重を落とすこともあるが、この時は違った。
「精神的なものだろう」
父義行はそう説明した。北京の前、「(メダリストになって)伯父と父の仲間に早く入りたい」と宏実は語っていたが、当時22歳だった宏実にはすべてが重かった。
今は考えられない
北京での競技を終えた直後、父も娘も茫然としていたのを思い出す。
そんなときに、親子の二人三脚が2012年ロンドン五輪まで続くのかを聞いた。
「今は考えられない」
そう父と娘は口をそろえた。
だが、2人はへこたれなかった。4年後、父と娘はたくましさを増して、五輪の舞台に戻ってくる。(続く)
二つの東京五輪 日本人金メダル1号の重圧を背負う三宅家<4>