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二つの東京五輪 日本人金メダル1号の重圧を背負う三宅家<2>

2017 6/15 11:17きょういち
重量挙げ
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出典 Ververidis Vasilis / Shutterstock.com

二つの東京五輪 日本人金メダル1号の重圧を背負う三宅家<1>


 中学3年生になった宏実が発した言葉を、父義行は今でもよく覚えている。

 「重量挙げ、やってみたいんだけど教えてくれる」

 義行の顔は渋かったという。「冗談だろ」と言った。重量挙げは女の子がやるスポーツではない、というイメージも、当時の義行にはあった。

シドニー五輪がきっかけだった

 宏実が中学3年生の時は西暦2000年。それは、シドニー五輪が開催された年だった。そして、このシドニー五輪から女子の重量挙げが正式種目として採用された。

 五輪期間中、宏実はシドニー五輪のテレビ中継を見ていた。画面には女子重量挙げが映っていた。選手は自分の体重の2倍の重さを挙げていた。そんな姿を見て、こう思った。

 「かっこいい。女子にもできるんだ」

 宏実がまさに、これからの行き方を考えていたときが2000年。女子重量挙げが初めて五輪に登場したのが2000年。運命の糸が絡み合い、宏実を重量挙げに誘った。

悩み抜いた末……

 ただ、重量挙げをやりたい、という気持ちを宏実はなかなか切り出せなかった。

 痛いほど、両親の気持ちは分かっていたからだ。

 3人きょうだいの末っ子、夫婦には待ちに待った女の子だった。音大出身の母育代に、4歳からピアノを学び、習字も水泳も習っていた。

 兄の重量挙げの大会についていくと、周囲が「三宅の娘だ」とバーベルを持たせようとした。でも、家族全員で止めた。

 「この子は女の子だから」

 でも、重量挙げをやりたいという気持ちは抑えきれなかった。それまでは普通の女の子で、重量挙げに興味もなかった。でも、やっとやりたいことが見つかったのだ。

 意を決し、相談した。その相手は父ではなかった。高校で重量挙げをやめた12歳上の長兄だった。

 そして、長兄が妹の思いを母に伝えた。

 母も3日悩んだという。宏実が初めてやりたいと言ってきたことだった。だから、応援すると決めた。

父の高1の記録を中3で

 冒頭の宏実の言葉、「重量挙げ、やってみたいんだけど教えてくれる」を聞いた父義行は、しばらく放っておいた。

 でも、宏実は言ってきた。「やりたい」

 義行は試しに家にあったバーベルを挙げさせてみた。宏実が挙げたのは42・5キロ。義行自身が高校1年生で挙げた重さと同じだった。それを中学3年生の女子が挙げた。

 義行はこの時、三宅家のDNAの存在を感じ、「世界で戦える」と思ったという。でも、宏実に対して、こう念を押した。

 「おれは、やれとは言ってない。自分から言ってきたのだから、絶対投げ出すな」

 この言葉は父と娘の胸に刻まれ、今も生きている。名選手だった親が子どもに無理に競技をやらせたという図式ではない、と2人は認識している。

 そこからだった。父親がコーチ、娘が選手という関係が生まれた。母親は減量のための食事を勉強し、練習や試合の撮影するサポート役に回った。

 宏実は学校だけでなく、家の台所でもバーベルを持ち上げた。母親から教わっていたグランドピアノは家からなくなった。それは今も変わらない。

 かつて慣れ親しんだグランドピアノは、貸倉庫に入れっぱなしだという。宏実が重量挙げを始めてからだから、かれこれ20年近くなる。

 「これだったら、1回売ってしまって、新しいのを買い直した方が得だったかも」

 今、30歳を超えた宏実は貸倉庫の中にあるグランドピアノを思うとき、そう言って笑う。

順調に五輪へ

 競技を始めた宏実は、三宅家のDNAを結果で証明していく。

 2002年、全国高校女子選手権53キロ級で優勝し、世界選手権でも9位に入った。2003年には全日本選手権でも優勝した。

 アテネ五輪がある2004年には、世界でより上位が狙える48キロ級に転向し、全日本選手権で優勝。ついに、親子2代、伯父も含めると三宅家として3人目のオリンピアンに決定した。

 三宅家の血を示すように順調に五輪にたどり着いた宏実だったが、その「ミヤケ」の名前に苦しむことになる。(続く)

二つの東京五輪 日本人金メダル1号の重圧を背負う三宅家<3>