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二つの東京五輪 日本人金メダル1号の重圧を背負う三宅家<4>

2017 6/21 14:36きょういち
重量挙げ
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出典 Paul Aiken/shutterstock.com

二つの東京五輪 日本人金メダル1号の重圧を背負う三宅家<3>


 三宅宏実のもともとの人生設計では、北京五輪後に引退し、語学留学をする予定だった。

 だが、2012年、ロンドン五輪の舞台に彼女はいた。

 「北京では納得のいく結果でなかったから」

 ただ五輪の舞台にいただけではない。金メダリストの伯父義信、銅メダリストの父義行と同じ、表彰台に立っていた。

 銀メダル。日本女子重量挙げ界に、五輪で初めてのメダルをもたらした。

プチ家出も

 北京五輪が終わって、すぐに前を向けたわけではなかった。

北京後の1カ月半は全く練習をしなかった。それまでできなかったネイルアートをしてみたり、家族旅行にも行ったり。重量挙げだけだった頭を1回リセットすると、再びやる気が起こってきた。

 ただ、親子の関係がうまくいかないこともあった。宏実が競技を始めてからというもの、父義行は練習時間を確保するために車で送り迎えをした。四六時中一緒に過ごすため、家では競技の話を避けたが、「親子だからこそ、突き詰めてしまいすぎる」ということは度々起きた。

 お互いが言いたいことを言い過ぎ、けんかになることもあり、北京五輪翌年の2009年には宏実が家を飛び出し、沖縄の知人のもとで1週間練習するということもあった。ロンドン五輪前にも、助言を聞き入れずにけがをした娘に、父がバーベルをたたきつけて怒ったこともあった。

脱受け身

 父娘がぶつかることばかり書いたが、北京からロンドンまでの4年間のキーワードは、いい意味での「親子離れ」だったと思う。

 いつも父親がそばにいて、指示を出す。それも父親は名選手、名指導者だから、的確な指示である。いつしか、娘は受け身になる。そんな中で宏実の精神力は、決して強いとは言えなかった。

 「大舞台で弱い」。というレッテルも貼られたこともあった。自身も「私、チキンハートなんです」と漏らしたこともある。

 だから、北京後は技術もさることながら、精神面での強化に取り組んだと言っていい。

 北京五輪の2年後だったと思う。宏実はこう語っていた。

 「変わりたい」

 それまでは父のつくった練習メニューをこなしてきたが、自分で考えたり、意見したりすることが増えてきた。「待っているのも嫌なんで」。

 父も思っていた。「自分でやる、という気持ちがないと上にはいけない」。

 その分、親子の衝突は増えたかもしれないが、1人のアスリートとしてみた時に、その衝突は必要だったかもしれない。

 もちろん、その自立が親子関係に傷をもたらしたことはない。

 ロンドン五輪の前、「父は心強い存在」と26歳になった宏実は言っていた。

 父義行も、娘を表彰台に立たせてやりたいと思う気持ちでいっぱいだった。

 「あそこに立てば、今までの苦しかったことも一瞬で忘れるから」

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