東京五輪は記録なし「心も身体もだしつくしました」
「あの日」から5日たった7月29日、彼女は自宅の周りを走っていた。
「21年間、大好きな甘いものを食べないで頑張ってきたでしょ。今はケーキやアイスクリームをたくさん食べているんで、その代わりに走っているんです」
そう、説明してくれたのは、三宅育代さん。東京五輪重量挙げ女子49キロ級に出場した三宅宏実の母である。
「あの日」、35歳の三宅は21年間の現役生活最後となる試技に挑んだ。スナッチで74キロを挙げたものの、得意だったジャークでは99キロを3回続けて失敗した。かつての48キロ級時代に三宅がマークしたジャークの日本記録は110キロ。それより10キロ以上軽くても、この21年間で満身創痍となっていた体には、持ちあげる力は残っていなかった。
記録なし。腰に両手をあて、目をつむった。最後は少しほほ笑んだように見えた。
「最後はあっけなく失格という結末をむかえてしまったんですけど、、、心も身体もだしつくしました」
現役引退を表明した後、筆者に送られてきたLINEにはそう書かれていた。
表舞台の笑顔とは裏腹に、練習では泣いてばかりの日々
ロンドン五輪での銀、リオ五輪での銅、そして記録なしに終わった東京五輪。三宅はいつも笑っていた。
でも、取材で練習を訪れると、三宅はいつも目に涙を浮かべていた。
初めて取材した2008年も泣いていた。
「そろそろ音を上げますよ」
父でコーチの三宅義行さんがそう言った直後だった。
「三宅家」は重量挙げの名門。伯父の義信さんは東京、メキシコ五輪で金メダルに輝き、父の義行さんもメキシコ五輪で銅メダルを獲得した。
でも、三宅自身は重量挙げに何の興味もなかった。中学3年生だった2000年までは。
シドニー五輪で女子重量挙げが新たに採用された。その中継をテレビで見て思った。「かっこいい。女子にもできるんだ」
両親は「女の子だから」と重量挙げを遠ざけていたことも知っていた。けど、父に切り出した。「重量挙げ、やってみたいんだけど教えてくれる」。父は「冗談だろ」と返した。
父は家にあったバーベルを挙げさせた。自分が高1で挙げた42.5キロを中3の娘が挙げた。「世界で戦える」と重いながら、念を押した。「おれは、やれとは言ってない。自分から言ってきたんだから、途中で絶対投げ出すな」。親と子、選手とコーチという二つの関係が始まった日だった。
心の中で一緒にバーベルを挙げ続けた父、約束を21年間守った娘
「親子だからこそ、突き詰めてしまう」。そう、父の義行さんは語っていた。
練習では、三宅と義行さんはよくぶつかった。父がバーベルをたたきつけて怒ることもあった。父の厳しさに耐えきれず、娘が1週間の「プチ家出」することもあった。
でも、練習を離れれば親子だった。娘が高校入学後は練習時間を確保するために、父が車で送迎した。父が減量に付き合うこともあった。
練習でも親子を感じたときがあった。三宅の練習が終わった後、義行さんがぐったりとしていた。その理由を聞くと、こう返ってきた。
「心の中で一緒にバーベルを挙げているんです」
だからだろう。三宅は競技人生最後の試技の後、義行さんについてこう語っている。「いろいろと思い出はあるんですけど、つらいときもあれば悪いときも多かったんですけど、どんなときでも励ましてもらえたんで」
最後は記録なしに終わったが、夏季五輪で5大会連続出場は、柔道の谷亮子さんに並ぶ、日本女子の最多記録である。義行さんは娘の偉業をこう褒めている。「オリンピックに5回連続で挑戦したというのは金メダルに等しいと思っています」
そして、娘が重量挙げを始めると決めた日の約束についても言及した。「『途中で絶対諦めない、投げない』という約束をちゃんと守ってくれたと思います」
今後は指導者の道へ
母の育代さんによると、三宅は引退を表明した後、「お父さんとゴルフがしたい」と言っているのだという。それを聞いた父の義行さんは「ゴルフ道具を買ってあげる」と言っているのだとか。
今後、三宅は父と同じく指導者としての道を進む予定だという。コーチ業を学ぶため、新しい形での父と娘の二人三脚が始まる。
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