身長が高いだけで選ばれた看板力士
大相撲は江戸時代にも盛んだったが、現在とは違う風習として「看板力士」というものがあった。基本的には実力とは関係なく、大きく見栄えの良い力士を看板大関として番付に乗せるというもので、記録によるとかなりの高身長力士がいたとされている。また、看板大関を経て稽古を積み、相撲の実力で番付に乗るという例もあった。
看板大関として有名な生月鯨太左衛門(いくつきげいたざえもん)は、227cmもあったそうだ。
高身長力士の特徴としては、長い手を使っての突き押し、相手の上からまわしを取ってのつりや投げがうてるという点がある。逆に重心が高くなりがちなため、小さい力士に足を責められると簡単にバランスを崩してしまうこともある。
伝説の高身長力士・明石志賀之介
大相撲の歴史の中で、伝説的な存在とされている「明石志賀乃介」という人物がいる。日本相撲協会からも初代横綱として認定されているこの人物は、身長が八尺三寸、約252cmというとんでもない高身長であったとされている。
江戸時代の初期に無類の強さを発揮して全国をまわり、相撲興行の開祖であるとされていたり、相撲の基本技四十八手を考案した人物として名前を残している。後代には講談の登場人物として扱われ、大衆にとってのヒーロー的な存在のひとりだった。いろいろな伝承があるが、身長も含めて信憑性が低いとされていて、あくまで伝説の力士という扱いになっている。
昭和の大相撲の中で高身長No.1・不動岩関
1940年(昭和15年)から1954年(昭和29年)までの間、実際に活躍した高身長力士が不動岩関だ。198cmという立派な体格を見込みスカウトされ、16歳のときに初土俵を踏む。その後も身長は伸び続け、最終的には214cmという昭和以降の幕内力士では最高身長を記録している。
力強さもあった不動岩関は、つりや投げが強烈で1946年9月場所では関脇まで昇進を果たす。横綱の期待も高まるが、お酒好きだったこともあり内臓の病気に苦しむ。坐骨神経痛も抱えており、最終的には十両陥落を機に引退した。
引退後は年寄・粂川として審判を任されるが、身長が高いせいで後ろの観客が見えないと苦情があり、異動させられるという逸話が残っている。
高身長で横綱まで上り詰めた曙関
ハワイ出身力士として、また外国人力士として初の横綱となった曙関は、204cmという高身長力士だった。横綱で2メートルを超える力士は珍しく、また外国人力士の中でも琴欧州関とならんで最高身長となっている。
ハワイ時代から体が大きくバスケットボールをやっていたが、東関親方(高見山)の勧誘を受けて、大相撲の世界へ進むことになった。強烈な突き押しで相手を圧倒する相撲で相撲界を席巻、1993年3月場所で見事横綱へと昇進を果たす。同期入門の若貴兄弟のライバルとして相撲界を大いに盛り上げてくれた。
その他の高身長力士たち
上で挙げた以外の、幕内で活躍する高身長力士たちも紹介していきたいと思う。
曙関と同じくらい大きかったのが琴欧州関だった。琴欧州関と同じ時期に活躍した把瑠都関も大きなイメージがあるが、実際は198cmで2メートルには少し届かないくらいだ。日本人では若貴兄弟とともに活躍した貴ノ浪関が196cmで大きかっただが、現役では勢(いきおい)関が大きくて195cmある。
いまや大横綱となった白鵬関は193cmという高身長でありながら、速さとうまさを兼ね備えているので強いのも納得だ。
まとめ
大相撲の歴史に残る高身長の力士たちを紹介した。約252cmという身長の信憑性はともかく、江戸時代の記録に残る伝説の巨大力士たちには、何かロマンすら感じる。今後も様々な高身長力士が出てくることを期待したい。
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