夏の甲子園出場6度のうち、4度が石田姓のエース
「伝説」の夏から5年が経過した。法政大学で今秋、ラストシーズンを迎える石田旭昇投手(4年)は2017年、2年生ながら福岡県立東筑高校を21年ぶり夏の甲子園に導いた立役者だ。同校は夏の甲子園通算6度のうち、実に4度を石田姓のエースで出場。周囲からは「石田伝説」と呼ばれた。
「高校2年生の夏は、いい意味で先を見なかったというか、目の前の1試合1試合に集中できたのが勝ちにつながったのかなと思っています。次の試合を考える余力もなかったですし、その試合に全力でぶつかることができたのが、勝ち上がっていけた要因じゃないかなって思います」
鞍手中時代は軟式野球部に所属し、最速125キロほどの右オーバースロー投手だった。高校進学の際は、強豪私学よりも公立高校を選択。その中でも「公立で甲子園にいけるのは東筑しかない」と野球と勉学の両立に励み、2016年春、地元進学校の門を叩いた。
高校入学直後にサイドスローへ転向
しかし、同級生には林大毅投手(現立教大学)らライバルが数多くいた。「林は中学の軟式野球界じゃかなり有名で、当時から135キロくらい投げていました。そんな投手が同級生で入ってくるというのを聞いたので、これは厳しいなと…」。球威では絶対的に劣る自分が生き残る方法を模索した結果、入学直後にサイドスローへの転向を決めた。
それが、青野浩彦監督の目に止まった。「結構面白い投げ方をするな、と。コントロールはいい方だったので、そういうのもうまくはまって登板機会も与えてもらったんじゃないかなと思います」
1年秋から背番号12でベンチ入りを果たすと、57キロだった体重は食トレ効果で2年夏には67キロまで増加。それに伴い、球速も137キロまでアップした。
2017年、全7試合完投で21年ぶり夏の甲子園へ、2018年センバツも出場
そして初めて背番号1を付けて臨んだ2017年5月の招待試合、日大三高(西東京)を相手に2―0、3安打完封勝利を挙げたことが「大きなきっかけだった」と振り返る。その勢いのまま臨んだ夏の福岡大会で福岡工大城東、西日本短大付、福岡大大濠と、強豪私学を次々となぎ倒し、全7試合完投勝利で1996年以来となる夏の甲子園出場を決めた。
「その前年まで九国(九州国際大付属)が夏3連覇している時で、強豪私学にどうやって勝てばいいんだろうと思ってやっていました。まさか甲子園に行けるとは思ってもいなかったですね」
2年夏、そして3年春と2季連続で出場した甲子園はいずれも大会初日、済美(愛媛)に4―10、聖光学院(福島)に3-5で敗れた。
「2年の夏は地に足がついていない状態というか、自分はどこにいるんだろうっていう感覚で、あっという間に過ぎ去りました。3年のセンバツも、自分の守備の綻びもあって負けてしまった。高校野球はいい思いもさせてもらったんですけど、まだいけたんじゃないかなっていう後悔もあります」
石田伝説「正直、自分でいいのかな、と。かなりのプレッシャーだった」
「4代目」となった「石田伝説」も少なからず重荷になった。「高校入学時にOB会の方から声をかけられて、そのときに石田伝説を知りました。正直、自分でいいのかな、と。中学時代から有名な選手でもなかったので、かなりのプレッシャーだったのは今でも覚えています」
そして迎えた3年夏の北福岡大会、北九州高校に2-5で初戦敗退。最後の夏はあっけなく終わった。引退後に東京六大学の名門・法政大学から誘いを受けた。
「高校野球を引退する前までは、地元の教育大にいって教師になろうという思いだったんですけど、チャレンジするなら、最高峰の舞台である東京六大学で自分の力を出し切って引退するのが一番なんじゃないかなって」。悔いなく野球人生を終えるため、より高いレベルに身を置くことを選択した。
法政大学では3年春にベンチ入り、4年春には5試合に登板
法政大学では2学年上に鈴木昭汰(現ロッテ)、高田孝一(現楽天)、石川達也(現DeNA)、1学年上に三浦銀二(現DeNA)、山下輝(現ヤクルト)らハイレベルな投手陣に囲まれ「レベルが違った」と衝撃を受けたこともあった。
それでも「焦らずに、じっくりいこうという思いで取り組んでいきました」と地道に努力を重ね、3年春からベンチ入り。同年秋に神宮デビューを飾ると、4年春には中継ぎで5試合に登板するまでに成長した。
持ち味である球の切れや伸びを磨くため、右腕をこれまでのサイドから少し上に上げるフォームに変え、最速も143キロまで伸びた。「自分が一番強く右腕を振れる位置をずっと模索してきて、この高さに落ち着きました。高校時代と比べると、上から投げているイメージが強いですけど、自分本来のピッチングの持ち味は生かせているんじゃないかなと思います」
野球人生の集大成、4年秋へ「1勝を挙げたい」
そして迎える4年秋のシーズンは、野球人生の集大成となる。来年からは福岡のテレビ局へと就職することが内定し、競技から引退することを決めた。
「今までずっと戦ってきて、結果を残さないといけないとか、勝たないといけないという重圧から解き放たれるかなというのはあります」と少しだけ安堵の表情を浮かべる。
ただ、肩の荷を下ろすのはもう少し先の話だ。今度こそ悔いなく学生野球を終えるために、成し遂げなければならない大仕事が残っている。「まずはリーグ戦に優勝して、そして全国で勝って終わりたいという目標に向けて、しっかり腕を振っていけたら。個人的には、自分がビハインドの場面で登板して流れを変えて1勝を挙げたいですね」
新たな「伝説」を作り、そして笑顔でフィナーレを迎えるために。石田は最後まで懸命に投げ続ける。
【関連記事】
・元ダイエー大越基氏の息子が立教大入学、父の教え胸に神宮目指す
・秀岳館で3季連続甲子園4強の左腕・川端健斗が大学に籍を残して目指す道
・元プロ野球選手からお茶の世界へ、下窪陽介さんが“淹れ込む”セカンドキャリア