J2で75試合出場、下積み時代を経て成長
川崎フロンターレの中村憲剛(40歳)が、今シーズン限りでの引退を表明した。大卒ではJ1最多出場となる471試合に出場、フロンターレ一筋18年のバンディエラが残した足跡を、ターニングポイントを軸にたどりたい。
12月21日に引退セレモニーが開かれたほどのスター選手となった中村だが、プロ入りまではエリート街道を歩いてきたわけではない。世代別日本代表に選ばれることなく、都立久留米高時代は全国大会に一度も出場できず、中央大へ進学。2年時にレギュラーの座を掴み、3年時には関東大学リーグ1部で最下位に終わり、2部降格…。Jのスカウトの目に留まらず、大学コーチの伝手でフロンターレの練習にテスト生として参加し、何とか合格した。
当時J2に属したフロンターレでのプロ生活が2003年よりスタート。背番号は26、彼のアイコンとして定着した背番号14は2年目から付けている。デビュー戦はその年の開幕カード・サンフレッチェ広島戦で、4月9日の等々力陸上競技場でのモンテディオ山形戦でプロ初得点を挙げた。
1年目のリーグ戦出場数は34試合(4得点)、2年目は41試合(5得点)。J2とはいえ、プロ入り早々から多くの試合に絡んだ。また、2年目に当時の関塚隆監督によりトップ下からボランチへコンバートされた経験が、のちの飛躍の礎となったに違いない。
ギネス認定、史上最年長の36歳でMVP
ブレイクしたのは、J1昇格から2シーズン目に突入した2006年。リーグ戦34試合に出場し、プロ人生において最初で最後の二桁得点・10得点をマーク。クラブ史上初のJリーグベストイレブンにも選出された(以降5年連続選出)。
その活躍が日本代表を率いていたイビチャ・オシム監督の目に留まり、10月4日キリンチャレンジカップのガーナ戦で初出場。10月11日のアジアカップ予選・インド戦で代表初得点も記録した。翌年から2010年まではA代表の出場試合数は毎年二桁を超え、通算68試合に出場。2010年の南アフリカワールドカップでは、ベスト16のパラグアイ戦に途中出場している。
2014年から3年間はフロンターレの主将を務め、2016年にはクラブ史上新記録となる15戦無敗記録を樹立。総合3位(2ステージ制)と優勝には手が届かなったが、自身は9ゴール・11アシストを稼ぎ、歴代最年長となる36歳で年間MVPを受賞。この記録はギネス世界記録にも認定された。
翌年には悲願のJ1初優勝、18年に連覇を遂げた。さらに19年ルヴァンカップ優勝、そして今季、圧倒的な攻撃力でJ最速優勝を達成。フロンターレの黄金期を築いた立役者として、サッカーファンに語り継がれるだろう。
絶妙パスで歴代得点王を輩出
名手・中村を語る上で欠かせないのが、キラーパスの受け手となる決定力抜群の名パートナーの存在だ。プロ1年目の2003年には、ブラジル人FWジュニーニョも一緒に加入。縦へのスピードと得点感覚に優れた点取り屋は同年にいきなり28得点を奪い、翌年に37ゴールとJ2得点王を獲得。2007年には22得点を挙げて、J1得点王にも輝いた。
2013~16年と2018年に在籍した大久保嘉人は、2013~15年に史上初の3年連続J1得点王を受賞。在籍中に計84得点を挙げ、J1通算最多得点記録(185得点)の金字塔を打ち立てた。後年、大久保は中村のことを「憲剛さんは別格の存在だった」と語っている。
10年から加入の小林悠とも長年ホットラインを形成した。小林は2017年に自身初の得点王となり、MVPとダブル受賞。2020年8月にはジュニーニョが持っていたJ1でのクラブ最多得点記録を更新し、現在120ゴールまで記録を伸ばしている。
直近の得点は、引退前最後のリーグ戦出場となった中村が演出。12月16日の浦和レッズ戦の3点目、意表を突くノールックパスに小林が“阿吽の呼吸”で反応し、叩き込んだ。
天皇杯でのラストプレーに熱視線を
ラストシーズンのリーグ戦は、昨季11月に負った左ヒザじん帯の大ケガにより、13試合出場(先発7試合)に留まった。にもかかわらず、約10か月ぶりの復帰戦だった8月29日の清水エスパルス戦で今季初得点を奪取、10月31日のFC東京戦では40歳のバースデーゴールを挙げて、いずれも勝利に貢献。引退前とは思えない千両役者ぶりを発揮した。
今季リーグ戦は終了したが、まだ天皇杯が残っている。12月27日の準決勝、2021年元日の決勝戦で中村の出番はあるのか。そして、クラブ史上初の天皇杯戴冠&2冠を果たし、有終の美を飾るのか。スパイクを脱ぐ最後の日まで、背番号14から目が離せない。
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