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オールラウンドプレーヤー!体操・冨田洋之の数々の功績

2017 1/30 21:11
新体操,フロアマット
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Photo by Mitrofanov Alexander/Shutterstock.com

アテネオリンピックで活躍した冨田選手を御存じだろうか。 日本体操低迷期に現れて、日本体操のオリンピック団体総合金メダルに貢献した。 ここでは冨田選手の生い立ちから引退までを紹介する。

8歳から体操を始め高校では3冠を達成

冨田洋之は1980年11月21日大阪府で生を受ける。体操との出会いは比較的早く、8歳の頃にはマック体操クラブに通い始めていた。ここで既にクラブに通っていて、後に同じ大学の体操部の同僚となる鹿島丈博と出会った。鹿島とはさらに2004年アテネ、2008年北京とオリンピックの日本代表として共に闘うことになる。
高校に入ると冨田は着実に力を付けていき、インターハイ、高校選抜大会、全日本ジュニア選手権の3冠に輝く。そして高校を卒業すると、順天堂大学に入学して世界を目指すことになるのだ。

世界選手権で好成績を挙げオリンピックへ

大学に入ってからも冨田の勢いは止まらなかった。2000年全日本学生選手権に優勝すると、2001年、2002年と3連覇を達成する。この間、2001年、2002年と全日本選手権を連覇、2002年NHK杯優勝、アジア選手権鉄棒で優勝すると、2003年世界選手権では個人総合3位と力を伸ばす。このとき、日本は団体総合でも3位に入った。
冨田は好調の中でいよいよオリンピックイヤーの2004年を迎えることになる。代表決定競技を兼ねたNHK杯を2位で通過して、念願の2004年アテネオリンピック代表選手に選ばれる。

アテネでは男子団体総合金メダルに貢献

日本の男子体操はオリンピック団体総合5連覇の実績もあり、体操王国と呼ばれていた。しかし1992年バルセロナの銅を最後にメダル獲得は2大会連続でなかった。金メダルに関して言えば、5連覇目の1976年モントリオールが最後だ。体操王国崩壊の危機とも言える状況だった。
そんな中、団体予選をトップで通過した日本は、アメリカ、ルーマニアと激しい戦いを繰り広げる。勝負の行方は最終種目鉄棒まで持ちこされ、最後に演技した冨田が9.850の高得点を出し混戦に決着を付けた。着地は伸身の新月面宙返りで決めたが、寸分乱れぬ演技を栄光への懸け橋と表現したアナウンスは今でも名実況として語られている。

アテネ後は世界選手権で本領発揮

2004年アテネでの冨田は団体総合金メダルの他に平行棒銀メダルを獲得するが、個人総合ではゆかで失敗して得点が伸びず、6位入賞にとどまる。そのときのゆかの得点は9.062と決勝に残った24人中22番目の点数だった。合計点数で金メダルを取ったアメリカのポール・ハムとの点差は0.338点しかなく、本当に悔しいゆかの失敗だった。
それでも翌年に行われた世界選手権メルボルン大会では個人総合優勝に輝く。翌2006年世界選手権オーフス大会では個人総合銀メダルとオールラウンドプレーヤーとして活躍は続いた。

北京オリンピックに出場、引退後は研究者の道へ

2008年北京オリンピックに出場した冨田の成績は団体総合銀メダル、個人総合4位と残念な結果に終わってしまった。個人総合ではゆかを無難にこなしたものの、つり輪で落下して僅差でメダルに届かなかった。そして2008年マドリッドで開かれたワールドカップを最後に現役を引退する。体操は美しくなければいけないが持論であった冨田。美しい体操ができなくなったからというのが引退の理由だった。
現在では順天堂大学スポーツ健康科学部助教授としてモルフォロギーの研究を手掛るとともに、国際体操連盟公認国際審判員の資格も取得している。

まとめ

2004年アテネオリンピックで日本団体総合金メダル獲得に貢献した冨田洋之について紹介した。 アテネでは日本のエースとして、オールラウンドプレーヤーとして活躍、現在の体操王国日本へと伝統を引き継いだ人物の一人なのだ。