あの選手の父親が日本人初のメダリスト⁉
男子世界ジュニア選手権でも、メダルを獲得した選手が多数いる。
1976年 ムジェーヴ:無良隆志(銀)
1989年 サラエヴォ:鍵山正和(銅)
1994年 コロラドスプリングス:重松直樹(銀)
1995年 ブダペスト:鈴木誠一(銅)
1996年 ブリスベン:本田武史(銀)
1999年 ザグレブ:竹内洋輔(銅)
2002年 ハーマル:高橋大輔(金)
2005年 キッチナー:織田信成(金)
2006年 リュブリャナ:小塚崇彦(金)
2010年 ハーグ:羽生結弦(金)
2011年 江陵:田中刑事(銀)
2015年 タリン:宇野昌磨(金) 山本草太(銅)
男子選手として初めて世界ジュニア選手権でメダリストとなったのが、無良隆志である。1976年、ムジェーヴ(フランス)で行われた大会で銀メダルを獲得した。
その後も全日本選手権などで活躍し、日本を代表するスケーターとして知られるようになる。無良の場合、シングルだけでなく、ペアでも実績を残した功績が大きい。
79年には岡部由紀子とペアを組み、全日本選手権で優勝。さらに翌年には伊藤俊美とのペアで、全日本選手権2連覇も達成した。フィギュアの面白さ、奥深さを広めた選手でもある。現役引退後もコーチとして活動し、息子の崇人や多くの選手たちの指導にあたっている。
2000年代になると金メダリストが3人も!
89年に鍵山正和が銅メダルを獲得。94年~96年までは重松直樹が銀、鈴木誠一が銅、本田武史が銀と、3大会連続で日本人選手がメダリストとなり、99年に竹内洋輔が銅メダルを獲得している。
いずれの選手たちも、当時のフィギュア界をけん引した選手であり、現在コーチとして活躍している人物も多い。
2000年代に入ると、彼らが果たせなかった金メダルの夢を現実にしてくれる選手たちが登場した。高橋大輔、織田信成、小塚崇彦の3人である。
高橋大輔は2002年のハーマル大会で、日本人男子選手として初の金メダルをもたらした。2010年にはバンクーバーオリンピックで銅メダル、同年のトリノ世界選手権(シニア)で金メダル。
いずれも日本人男子選手がなしえなかった快挙である。
2005年には、キッチナーで行われた世界ジュニア選手権にて、織田信成が金メダルを獲得。この時、女子では浅田真央も金メダルを獲得しており、初のアベック優勝も達成している。
翌年には小塚崇彦も金メダル。高橋の登場以降、金メダルを獲得する選手たちが続出し、女子にも有望選手が登場してきたこともあり、日本にフィギュアブームが到来した。
同学年の羽生結弦と田中刑事も、世界ジュニア選手権でメダルを獲得
3人のメダル獲得から数年後、再び2年連続で日本にメダルをもたらした選手たちが登場する。羽生結弦と田中刑事だ。2人とも94年生まれの同学年。
2018年に行われる平昌オリンピックでは、2人揃って代表に選ばれている。
2010年ハーグで行われたジュニア選手権で、羽生結弦が金メダルを獲得。その後すぐにシニアでも結果を出し、2014年のソチオリンピックで金メダルを獲得するなど、今や世界でもっとも注目を集めるスケーターだろう。
田中刑事は、2011年に江陵で行われた世界ジュニア選手権で銀メダルを獲得している。非常に下積みが長く、この世界ジュニアで銀をとるまでは、全日本ジュニアでも表彰台に上がったことはなかった。
シニアに上がって以降も、全日本選手権ではメダルに届かず、2016年に8度目の挑戦で念願のメダルを獲得した。一気にトップ選手へと駆け上がった羽生とは対照的であるが、地道に努力ができるのも彼の魅力なのだろう。
徐々にシニアの世界で結果を残せるようになり、ここ2年は全日本選手権でも2位に入っている。
次世代の若い選手たちもメダルを獲得
2015年には、表彰台に2人の日本人選手が上がっている。金メダルを獲得した宇野昌磨、そして銅メダルを獲得した山本草太、いずれも羽生・田中の次の世代を担う選手たちだ。
宇野は2017年12月に行われた全日本選手権で、圧倒的な演技で優勝。平昌オリンピックの代表に選ばれている。以前はジュニアの中でもやや遅れをとっていたが、2015年のジュニア世界選手権でメダルを獲得して以降、一気にトップ選手にまで駆け上がっていった。
山本草太も注目したい選手である。15年の世界ジュニア選手権後、さまざまなジュニア大会で結果を残し、いよいよ翌シーズンからはシニアの大会に出場する予定であった。
しかし、シーズン終了間際の3月に右足首を骨折し、さらに夏には右足内側くるぶしを疲労骨折。2016-2017年シーズンを棒に振ることになってしまった。
だが2017ー2018年シーズンで復活を遂げる。11月の西日本選手権で5位、全日本選手権では9位。
足にボルトが入ったまま渾身の演技を見せた山本に、ファンはスタンディングオベーションで答えた。平昌オリンピック選考には間に合わなかったが、2022年の北京オリンピック選考に食い込む実力は十分にある。