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教職を捨てたプロボクサー浅井大貴が引退決意…第二の人生で追いかける「新たな夢」

浅井大貴,ⒸSPAIA
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今秋にラストファイト、トレーナーとして再出発

アマチュアボクシングの元全日本社会人選手権ライト級王者で、現在はプロボクサーの浅井大貴(36=アポロ)が11月22日の阪下大地(SUN-RISE)戦で引退し、トレーナーとして第二の人生を歩むことを決意した。このほど、浅井がSPAIAの単独取材に応じた。

プロデビュー戦は2020年11月28日、すでに31歳になっていた。「亀田三兄弟」のいとこ、亀田京之介とのフェザー級6回戦。アマチュア時代の実績が認められて6回戦デビューとなり、多くのメディアが試合会場に駆けつけるなど注目度は高かったが、結果はまさかの2回TKO負けだった。

亀田京之介はその後、世界ランカーのルイス・ネリ(メキシコ)やアラン・ピカソ(メキシコ)と戦うほどに出世したが、浅井は勝ったり負けたりを繰り返し、対照的なボクサー人生を歩んだ。

ここまでの戦績は3勝(3KO)3敗。勝つも負けるも全てノックアウトだった。ラストファイトとなる7戦目は浅井らしい面白い内容の完全勝利で締めくくるつもりだ。

「プロになる前は絶対に負けることはないと思ってましたが、想像以上にプロは厳しかった。アマ時代から5年くらいブランクがあるのに、プロボクサーとしての格好ばかりを気にしてしまい、何としても勝たないといけないというハングリーさがありませんでした。お金を払って来てくださっているという弱気な自分もいて、あの観衆の中でリングに立つのは重圧でした」

プロボクサーとしての道のりは思い描いていたものとは違った。しかし、今は「新たな夢」に向かって、すでにスタートを切っている。

浪速高校の先輩でもある幼馴染の父親が営む大阪府藤井寺市のイーストボディボクシングジムでトレーナーとして働いている。引退後は会員の指導だけでなく、運営も任される。

今後は会員を増やして規模を拡大すべく、ジム内の設備などを一新しようと自らDIYに取り組む。リフォームを完了させ、フィットネス専門のジムとして9月7日にリニューアルオープンする予定だ。

「今は正直、不安しかないですけど、ストレスもないんです。これまで教師としてプレッシャーを感じたり、いろいろな職を転々としてきましたが、今は自分が頑張ることで会員さんが喜んでくれる。そんな人たちを見てると僕も嬉しいし、笑顔になれますね」

まだトレーナーとしての報酬はない。しかし、好きなボクシングで生きていく新たな道が見えてきた今、もう迷うことはない。

廃部となった近大ボクシング部復活へ奔走、監督就任、全日本王者に

浅井の人生は波乱万丈だった。小学生の頃、畑山隆則と坂本博之の世界ライト級タイトルマッチを観てボクシングに目覚め、赤井英和らを輩出した名門・浪速高校に進学。3年時にフェザー級で国体に出場するなど実績を残した。

スピードあふれるパンチと天性のボクシングセンスがスカウトの目に留まり、関西学生リーグ36連覇、全日本大学王座にも10回輝いた強豪・近畿大学に進学。母親はボクシングを続けることに反対だったが、学費免除の特待生ということで許してもらった。

しかし、2年生になった2009年6月、まさかの事態が浅井の人生を翻弄する。ボクシング部の部員2人が強盗事件を起こして逮捕され、ボクシング部は廃部となったのだ。

「衝撃でした。活動停止かと思っていたのですが、まさか廃部とは信じられなかった。報道されてから寮の外にはマスコミもたくさんいて、何が何だか分からなかった」

廃部となってからは学内の施設も使えなかったため、練習場所すらない。プロ転向も考えた。実際、1学年上の中谷正義は卒業後にプロ転向して2021年にワシル・ロマチェンコ(ウクライナ)と戦うなど世界ランカーにまでなった。

しかし、浅井は思い留まった。近隣のジムでトレーニングを続けながら、他の部員とともに近大前の学生通りを清掃したり、復活を願うOBらの協力も仰いで署名活動をしたり、ボクシング部の復活を目指して活動を続けた。

「当時は何も実績がなかった僕をスカウトしてくれた監督さんたちから『君の力で近大を変えてほしい』と言われたことが頭にあったんです。ボクシング部を復活させるのが僕の使命やと勝手に思ってました」と振り返る。

廃部から3年後、浅井が近大を卒業して半年後の2012年秋、地道な活動と熱い思いが届き、大学がボクシング部の復活を承認。OBの赤井英和氏を総監督として迎えると同時に、まだ23歳だった浅井が監督に指名された。

「ビックリしました。復活は嬉しかったですが、監督なんて考えてなかったんで。まだ選手としてもやりたかったですし」

浅井のリーダーシップや人間性を見込まれての抜擢だったのだろう。教員免許を取得した浅井は母校・浪速高校の講師をしながら近大ボクシング部の監督を兼務し、自ら選手としてのトレーニングにも励んだ。

そんな状況で監督として関西学生2部リーグで優勝し、その後1部リーグに昇格。選手としては2014、2015年の全日本社会人選手権ライト級を連覇した。2015年限りでアマチュアは引退し、61勝(33KO・RSC)16敗の戦績を残した。

近大時代の浅井大貴

近大時代の浅井大貴,本人提供

プロ転向を決意した教え子の言葉

2016年3月で近大ボクシング部の監督を後進に譲り、浪速高校ボクシング部で指導。その後、大商大堺高校の教師に赴任する。しかし、ボクシング部はなかったため、個人的にボクシングのトレーニングは続け、知人のジムでトレーナーの手伝いとして指導。ボクシングへの悶々とした思いを断ち切れないでいた。

そんな時だった。浪速高校3年だった横山葵海(現東洋太平洋スーパーフライ級王者・ワタナベ)が2019年のインターハイで3位になり、メダルを持って報告に来てくれた。多くの部員を迎えながら、横山を含む当時の生徒たちの卒業前に浅井は浪速高校を離れ、大商大堺高校に赴任していた。

「“浅井先生のおかげでメダルを獲れました”と言ってくれたんです。浪速高校にいた時は教え子をインターハイ王者にできなかったんで、生徒たちに悪いことをしたなという気持ちもあって、それで一気に火がついて、僕も全てを捨ててプロに挑戦しようと決めました」

浅井は涙ながらに振り返る。教え子のためにも自分に嘘はつけなかった。

浅井大貴と横山葵海

浅井大貴と横山葵海,本人提供

難病の子供のためにも……

浅井には家族がいる。妻・志帆さんとの間に二男が誕生。小学1年生の長男・栄孝(はるゆき)くんの弟として生まれた2歳の次男・美陽也(みおな)くんは滑脳症という難病を患っている。知的障害や運動障害があり、少しずつ体は成長するものの一生治ることはないため介護が必要という。

プロ転向後、トレーニングに集中しようと大商大堺高校を退職したが、ボクサー一本で食べていけるほどファイトマネーは高くないため職を転々とした。稼ぎは少ない。デスクワークは向いていないと感じ、ふさぎ込んだことも一度や二度ではない。

しかし、今は心の霧も晴れた。11月の試合で引退し、トレーナーとして再出発するにあたり、6月限りで仕事も退職。今は無収入だ。「妻はあきれてます」と苦笑いするが、なぜか悲壮感はない。

浅井の周りには人が集まる。これまでも、ずっとそうだった。近大ボクシング部が廃部になった時、復活して監督を務めながら教師として、ボクサーとして目の回る日々を過ごしていた時、プロ転向を決意した時、いつも周囲の人たちが支えてくれ、仲間がパワーをくれた。

それは浅井の一本気な性格と他人に優しい心根の持ち主だからだ。愛する家族のため、お世話になった人たちのため、そして自分を育ててくれたボクシングに恩返しするため、浅井は今日も汗をかく。

11月22日。ラストファイトのゴングは、第二の人生の始まりを告げるゴングでもある。

イーストボディボクシングジムの前で

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