20年前に初めて見た時の衝撃
不可能だと分かっていても考えてしまう。それでも、あの投げる姿をずっと観ていたい。ふと、気づけば東京ドームのアナウンスが聞こえてくるのではないだろうか。「ピッチャー・上原」。でも、もうそれはないのだと思うと寂しい。わかっちゃいるけど寂しい。
引退を発表した巨人・上原浩治の投球を初めて体感したのはルーキーイヤーの1999年だった。何しろ、直球の伸びがえげつなかった。筆者はヤクルト担当として、対戦相手目線で上原を見ていた。テンポ、コントロール、球威ともに抜群で、とにかく試合が早く終わった。3時間半でも当たり前の時代に、2時間ちょいという試合も珍しくなかった。中継していたテレビ局関係者が困ることもあったほどだ。
ヤクルトとの対戦で印象に残っているのは10月5日(神宮)。当時、松井秀喜と本塁打王争いを演じていたペタジーニを「涙の敬遠」で歩かせた場面だ。実際には全打席で勝負を避けるよう指示が出ていたが1、2打席は正面から向かっていって打ち取った。ただ、1死無走者で迎えた第3打席はそうはいかなかった。
敬遠のボールにも関わらず豪速球を投げ込むと、センター方向に振り返りマウンドを蹴り上げた。ユニホームの袖で悔し涙を拭った。当時のペタジーニは「何も泣くことではない。まだ彼のキャリアは始まったばかり。勝負してくれた姿は立派だった」と話している。実はこの後の9回、第4打席ではペタジーニと勝負して、適時打を浴び完封を逃したが19年ぶりの新人20勝を決めた。
食事中もストレッチ
その後、時がめぐり2002年は巨人担当として上原を取材した。宮崎キャンプ中に先輩記者からの紹介で、会食する機会にも恵まれた。通された席は座敷だったのだが、「ちょっとすいません。行儀悪いんですけど、足伸ばしていいですか」とずっとストレッチをしながら食事を楽しんでいた。こちらも便乗して硬い体を伸ばしていると「あー気持ちええわ。いい食事やったねえ」と表情が砕けたのを覚えている。
そのシーズンはサッカー日韓共催W杯の日本対ロシア戦も一緒に観戦した。6月9日でシーズン中だったが、プロ野球の日程の合間を縫って横浜国際総合競技場に駆けつけた。稲本の決勝ゴールの瞬間は周囲のサッカーファンとハイタッチして、完全に巨人の上原だとバレていた。
シーズン中も好調で17勝を挙げ日本一に貢献した。筆者が勤務していたデイリースポーツには、リーグ優勝の際に優勝手記を寄せてくれた。
投げる投手がその試合のエース
まさにエースの活躍だった。だが、上原はエースという表現を嫌がった。
「その試合、その試合に投げる投手がみんな、その試合のエースなんですよ。プロ野球の世界ではそのみんなが頑張らないと優勝もできない。だから、僕はエースという存在があるとしたら、その一人」
聞いていると屁理屈のようにも聞こえるが、これも若くして結果を残してなお謙虚であり続けた上原らしい言葉だ。
ここからは結果を重ねながら故障とも戦い続けた。登板後の裏舞台では、ほぼ全身テーピングやアイシングでぐるぐる巻きの状態だった。目標をメジャー移籍に見据え、ポスティングでの移籍を直訴したが却下。代理人契約を認めない球団とも、ファイティングポーズを取って真っ向勝負した。
この時期は、上原のしかめっ面を多く見た気がする。取材をしている自分としても徐々に距離を感じ始めていた。
ポツリと漏らした“引退宣言”
2009年にようやく米大リーグ・オリオールズに移籍を果たした。13年にはレッドソックスのクローザーとして、日本人として初めてリーグチャンピオンシップ、ワールドシリーズで胴上げ投手となった。世界一の結果を残した上原にはもう、しかめっ面はなかった。
2017年オフに帰国し、筆者が経営していたスポーツバー「42」に来店してくれた際は、まだ所属球団が決まっておらず「2018年までアメリカでプレーできれば日本で10年、アメリカで10年の区切りになる。それでスッキリ辞められるんやけどな」と微妙な“引退宣言”を漏らしていた。
その約1週間後には店に使用済のグラブも寄贈してくれた。来店したお客さんは、虎党だろうが鯉党だろうが「上原さんは別格やからめっちゃ好き」と本物の愛用品を喜んでくれた。
その後、当時の鹿取GMや高橋監督の誘いもあり「まさか」の巨人復帰で、2018年に日米通算100勝100セーブ100ホールドを達成した。観ていた全てがレジェンドの1ページ。当時はそれには気づけていなかった。ただ、今年の上原のブログの行間から苦しい心が垣間見れた。その時は近いな、と感じた。こんなに早いとは思わなかったが。
小気味いい投球スタイルと同じくスパッと引退を決めた。大学進学時には浪人も経験、野球エリートではない“雑草”が切り開いたサクセスロード。いわゆる普通のおにいちゃんが世界一になったことは、球界だけではなく普通の若者やオヤジ世代にも勇気を与えてくれた。
引退を報告したSNSにコメントを寄せると、忙しいはずなのにわざわざ返信までしてくれた。敷居の低い謙虚なスーパースターといっては失礼だが、今後も野球文化の発展に関わっていってもらいたい。