「スポーツ × AI × データ解析でスポーツの観方を変える」

「JFE東日本で都市対抗野球制覇を」 元DeNA須田幸太が9年越しの目標に挑む・上

2019 3/9 11:00永田遼太郎
須田幸太,ⒸSPAIA
このエントリーをはてなブックマークに追加

ⒸSPAIA

「社会人野球に戻りたかったんだと思う」

まだプロの世界に未練が残っているのではないか?

当日、取材の席につくまで、筆者にはそんな想いがあった。

プロ8年間の通算成績は166試合に投げて、16勝19敗37ホールド1セーブ。2016年には横浜DeNAの勝利の方程式の一人として62試合に登板したのはまだ記憶に新しい。

しかし、彼は澄み切った表情で、きっぱりとプロへの未練を否定する。

「ないです。正直なところ(プロ野球合同トライアウトは)記念受験でしたからね。それよりも僕は、社会人野球に戻りたかったんだと思います」

JFE東日本・須田幸太、32歳。

たくさんのベイスターズファンに愛され、昨年、惜しまれながらプロの世界を去ったその人は、古巣であり、第二の人生のスタートラインとなるJFE東日本で、次の目標に向かっていた。

「選手として何か協力を」

2019年2月、千葉県市原市にあるJFE犬成(いぬなり)球場。市街地から車で20分、人里離れたこの場所で、須田は20代の若い選手達と共に連日汗を流していた。

プロ入り後も、自主トレの地として毎年利用してきたこともあり、選手もスタッフも皆、顔見知りばかりである。須田にとっては、ある意味、野球界の故郷(ふるさと)のような場所。

それほどの愛着があるチームだから、プロに在籍しているときも毎年5月、都市対抗野球予選の時期が近付くと、まるで自分事のように心が騒いだ。

「8年間プロにいて、4回は都市対抗予選を見に行きましたね。県営大宮球場とか市原のゼットエー(ボールパーク)とか色々と見に行きました。ただ、全部1点差で負けているんですよ。0対1、1対2、2対3とか…。だから一人でも二人でも、試合で平常心になれる選手がいたら、勝てた試合だったんじゃないかと思って、いつもスタンドから見ていました。実際にチャンスは作るけどそれを返せない。それの繰り返しでしたからね」

まるで自分事のように悔しがった。

そんな想いが常にあったからこそ、〝古巣復帰″の選択はある意味、自然な流れだった。

昨年10月、横浜DeNAから戦力外通告をうけると、須田は「選手として何か協力出来ませんか?」と、迷わずJFE東日本・落合成紀監督に相談をした。

この時点で、須田の気持ちはほぼ「社会人行き」に固まっていたという。

「今はやることだらけ」

「(早稲田大学を卒業して)社会人1年目のときに、都市対抗野球の補強選手としてホンダに行って優勝しました。そこで都市対抗野球の魅力、優勝することの凄さ、大変さが分かった気がしたんです。その上で、今度は自チームで優勝することを目標にしようと思いました。それが9年前は結果として達成できなかったので、不完全燃焼のままプロに行くことになった。だから今、JFEでその想いを果たしたかったということです。優勝したいという想いは、最初に入社した09年からずっと自分の中で持ち続けたことでもあったので…」

社会人野球復帰の理由をそう語った。

戦力として自分を売り込んだからには、かつての実績で勝負しようとか、いずれは指導者として居座ろうという気はさらさらない。この冬は、かつてないほど自分を追いこみ、過去最高の自分に仕上げようと必死な毎日を過ごした。

「ランニングの量は以前より減らしているんですけど、ウエイトトレーニングは若手と同じメニューをやっていますし、重りも上げて、今はやることだらけって感じです。全体的な練習量で言ったら、今の方が確実に増えている気がします」

プロにいたとき同様、もしくはそれ以上に自分を鍛え上げることで、今いる若い選手達に刺激を与え、より競争意識を高めよう、それでチーム力を高めていこうと考えている。それが彼の狙いでもあり、同時に自分を獲ってくれたJFE東日本への恩返しになると信じている。

そこまでして、恩返しをしたい理由がある。

「野球が終った後もJFEの力になりたい」

「ここに帰って来たのはあくまで選手としてなので、引退したら『コーチで』とか全然考えていないです。それでも自分はJFEで野球がやりたかったし、『じゃあ野球が終ったらまた別の仕事を探そう』と、そう思って、ここにも入らせてもらったんです」

そんなときグループ会社のひとつ、JFE物流株式会社が正社員での雇用の話をくれた。

「もう、感謝しかなかったです。だから僕は、野球が終った後も会社の力、会社の一員として働きたいと今、思っているんです。一社会人、サラリーマンとして、しっかりJFE物流の会社員として働きたい。野球をあがったら、そうしようと考えています。そこで10年~20年と働いて、そのときに会社から(指導者とか)お話をもらえるなら、そのときは考えたいなって思っていますけど、現時点で『いずれコーチになれたら』とかは全然、考えていないです」

会社への思いがそれほどとは正直驚いた。

このとき彼が、野球選手として社会人野球に戻りたかったわけじゃなく、一社会人として、企業チームに戻って来たかったんだと理解した。

「腰掛け」なんかじゃない。一生野球を続けるためではなく、残りの社会人としての人生を会社のために使いたい、そんな気持ちで彼は古巣に戻って来たのだと理解した。

「会社から、ちゃんとした社会人として認められるまで、働きたいなって思っていますし、これが普通なことなんだと思っています。本当にJFE物流に雇用してもらったことに感謝しかありません。本当だったら野球が終ったら、また別の仕事を探して、働くわけじゃないですか。それが今、JFE物流株式会社に採用してもらって再スタートを切れたわけですから、その恩はちゃんと返さなくちゃいけないなって思っています。それを社長に言ったら『プロでコーチに誘われたらどうするんだい?そのときは行きなさい』って笑って言ってもらえたんですけどね」

そう話すと本当に嬉しそうに屈託のない笑みを浮かべた。

完全復活は「もうちょっと」

2016年のシーズン終盤に左大腿部の肉離れを起こして以来、残った悪癖は今も完全には払拭できていない。

この冬、ウエイトトレーニングの量を増やしたのもそれに抗うためのひとつの策だ。

「今はウエイトトレーニングで特に下半身を鍛えています。上半身、全身、下半身と3つのトレーニングメニューに分かれているんですけど、上半身を鍛えるときも下半身のメニューを入れて、全身をやるときも下半身を入れて、下半身をやるときは下半身を目一杯やるイメージで、今はやっています」

完全復活への手応えを訊くと、彼は照れくさそうに笑った。

「手応え的にはもうちょっとかなって感じですね」

でも、この笑みを見てどこか安心した面もある。深刻な不安を今も抱えているなら、あんな顔、他人には見せない。そう思えたからだ。

この取材があったのは2月の前半。今はさらに状態も上がっているように思う。次に会うとき、須田がどこまで自分を仕上げているか、とても楽しみだ。

「監督からも『無理に(3月の)スポニチ大会に合わせなくても良いから。4月くらいから頑張ってくれたら』って言われています」

だから焦る気持ちはさらさらない。

その先の胸躍る、熱い季節に照準を定め、爪を磨いている。

この他に須田選手には社会人野球、そしてJFE東日本について語ってもらっています。その詳細については後半を是非お読みください。


「JFE東日本で都市対抗野球制覇を」 元DeNA須田幸太が9年越しの目標に挑む・下へ続く