シドニーオリンピックに出場した中央大学時代
阿部慎之助選手(巨人)は千葉県浦安市の出身で高校は東京の安田学園高校に進学する。安田学園は阿部選手が入学当時甲子園への出場経験はなく、東東京でも強豪校ではなかった。入学当時は三塁手として試合に出場し本核的に捕手となったのは1年の秋からだ。高校3年間で阿部選手は甲子園に出場することはなく東都大学野球連盟の中央大学へ進学する。
大学時代は東都の二部、一部両リーグで活躍。「打てる捕手」としてプロからの注目度も高く2000年には初めてプロ・アマ混成となったシドニーオリンピックの日本代表に選ばれる。当時のチームメートには石川雅規選手(青山学院大学→ヤクルト)、杉内俊哉選手(三菱重工長崎→ダイエー)ら後のプロ野球選手も多数在籍していたのだ。
シドニーオリンピックでは8試合に出場し打率.111(18打数2安打)と結果を残すことができず悔しい思いをしている。阿部選手はその後も北京オリンピック、第2回WBC、第3回WBCと国際大会を経験しているが好成績を残すことはできていない。
シドニーオリンピックが終わった直後のドラフトで阿部選手は巨人を逆指名し入団に至る。
毎年成長を遂げるスーパー捕手
2000年のドラフト会議で巨人を逆指名し入団した阿部選手。2001年のルーキーイヤーには開幕戦からマスクをかぶるなど127試合に出場する。巨人における新人捕手の開幕スタメンは23年ぶりのことだった。年間を通じて規定打席には到達しなかったものの打率.225、13本塁打、44打点を記録。新人捕手としては申し分ない成績を残す。
2年目のシーズンでは規定打席に到達し打率.298と3割一歩手前まで躍進。本塁打も18本と20本にあと少しまで迫るなど打撃面で開花。ベストナイン、ゴールデングラブ賞に輝く。巨人は1980年代に正捕手としてチームを支えた山倉和博選手以来の規定打席到達となった。長らく正捕手不在に喘いでいた巨人にも待望の「打てる正捕手」が誕生したのだ。
圧巻だったのは2004年シーズンだ。開幕から絶好調だった阿部選手は4月に球団の月間記録となる16本塁打を放つ。また、開幕33試合目にして20本塁打に到達。これは世界最速となった。シーズン半ば以降は本塁打のペースも落ち着くが最終的に33本塁打を放ち巨人の捕手として初めて30本塁打の大台に到達したのだ。
完全に巨人の正捕手に落ち着いた阿部選手は2007年、2009年にも33本塁打、32本塁打と30本塁打超の本塁打を放ち捕手という枠を超えた強打者に成長する。2012年には打率.340、104打点で自身初となる打撃タイトルを獲得した。
2013年こそ打率.296、32本塁打、91打点の成績を残すが、それ以降はケガもあり成績は下降線を辿ってしまう。
一塁手へのコンバート
2014年オフに阿部選手は一つの決断をする。長らく務めてきた捕手から一塁手に転向したのだ。このオフにはヤクルトからFA宣言をした相川亮二選手が移籍してきたこと、2013年のドラフトで獲得した小林誠司選手が2年目となり成長してきたことなどチーム事情も大きく影響している。
さらに、2001年以来満身創痍で戦ってきたこと、身体が悲鳴を上げていたこともあるのだ。一年でも長く現役でプレーするために捕手よりは守備負担の少ない一塁手として再出発を考えた。
しかし、2015年シーズン開幕早々に相川選手が故障で離脱。4月半ばには再び捕手としてマスクをかぶることになったのだ。阿部選手は開幕一週間後には4番捕手としてスタメンに戻ってきた。好調をキープしていた阿部選手だが4月17日に肉離れを発症し登録抹消となってしまう。1ヶ月で戦列に復帰し捕手として試合に出場するが6月後半からは相川選手、小林選手らに捕手のスタメンを譲り当初の予定通り一塁手として出場を続ける。年間を通じては捕手として25試合、一塁手として78試合に出場となった。
翌2016年は故障による出遅れもあり5月31日が阿部選手にとっての開幕となった。交流戦ということもあり指名打者で出場した阿部選手は本塁打を放つ好スタートを切っている。その後は指名打者、一塁手での出場を続けシーズンを通して一度も捕手の守備につくことはなかった。これは、入団以来初の出来事だ。
小林誠司選手を育てる立場へ
巨人は阿部選手が長らく一人で正捕手を張ってきたために、次世代捕手の育成が進んでいない。阿部選手が入団当時に山倉選手の後進が育っていなかったのと同じ状況だ。
そこで、近年は小林選手を次代の正捕手候補として育成を進めている。2014年がルーキーイヤーとなっている小林選手は出場機会を少しずつ増やし2016年シーズンは129試合に出場。12球団の捕手で唯一規定打席に到達した。しかし、規定到達者の中で打率は最下位と打撃面では期待に答えることができていない。
捕手として投手をどうリードしていくのかに頭が一杯になっているのだろう。その小林選手と阿部選手は2016年オフから合同自主トレを開始した。
阿部選手が経験してきたことを「阿部ノート」にまとめ、すべて伝授することを決断したのだ。捕手は小林選手に任せ、自分は一塁手としてプレーに専念する阿部選手の決意でもある。一朝一夕に学べるものではないが2017年シーズン「阿部ノート」を小林選手が吸収できるかどうか楽しみだ。
巨人の歴代記録に挑む
阿部選手は捕手としてではなく歴代の強打者たちに肩を並べる記録を2017年シーズンに追っている。2016年シーズン終了時点での通算安打数は1917本となり残り83安打を放てば名球会入の資格となる2000本安打達成となる。
これは、巨人で王貞治選手、長嶋茂雄選手、川上哲治選手、柴田勲選手に次ぐ5人目の記録となり原辰徳前監督も達成していない記録だ。
また、本塁打も2016年シーズン終了時点で373本となっており400本塁打まであと、27本に迫っている。巨人軍の歴史で400本塁打は王選手、長嶋選手以来3人目の記録だ。
出場試合数は2016年シーズン終了時点で1963試合となっており巨人史上歴代5位となっている。川上哲治選手の1979試合は4月中に達成できる見込みとなっており次は長嶋茂雄選手の2186試合を目指すことになる。2017年シーズン中の達成は不可能だが2018年シーズンも現役を続ければ更新が期待できる。
阿部選手は2001年のルーキーシーズンから巨人一筋でプレーを続け、捕手・4番・主将としてチームを支えてきた。1979年生まれと決して若くはない阿部選手だがキャリア晩年をケガなく過ごし、将来的に監督となることを期待する。