次男・清原勝児の所属する慶応がセンバツ出場決定
「清原」が甲子園に帰ってくる。3月18日に開幕する第95回選抜高等学校野球大会に慶応(神奈川)の出場が決まった。
サードを守る清原勝児(1年)は、PL学園で甲子園通算13本塁打を放ち、プロ野球でも525本塁打をマークした清原和博氏の次男。聖地で「サード、清原君」のアナウンスがこだますれば、胸を高鳴らせるファンが多いに違いない。
1月27日に慶応の出場が決まると、父・和博氏は自身の公式ツイッターで「一報を聞き、うれしく思うと同時に、40年前、私自身が初めて甲子園に出たとき以上の緊張感が湧き起こっています。出場するすべての選手に、あの大舞台で、悔いなく全力でプレーしてほしいと願っています」と書き込んだ。
40年前―。PL学園の1年生だった1983年夏、大会注目のスラッガーとして清原和博氏が初めて甲子園の土を踏んだ。改めて偉大なる強打者の足跡を振り返ってみたい。
1983年夏:打率.304、1本塁打
1983年夏、初戦の相手は所沢商だった。PL学園は6-2で快勝したが、4番・清原は無安打。送りバントを決めてチームに貢献した。
2回戦の中津工も7-0で完封勝ちしたが、清原は4打数無安打。3回戦の東海大一戦で初安打を含む2安打を放って6-2の勝利に貢献すると、準々決勝の高知商戦は乱打戦となった。
PL打線は同年ドラフト3位で日本ハム入りする高知商のエース津野浩を攻略。清原も4打数3安打3打点と大暴れで10-9の勝利に貢献した。
迎えた準決勝の相手が、夏春夏の3連覇を狙っていた徳島・池田。同年ドラフト1位で巨人入りするエース水野雄仁にPL打線が襲い掛かり、7-0で池田の偉業を阻んだ。清原は4打数4三振だったが、先発の桑田真澄が本塁打を放ち、投打で活躍した。
決勝の相手は横浜商。甲子園で13本塁打を放った清原が、最初の一発を放り込んだのがこの試合だ。2回、長身右腕・三浦将明の外角球に逆らわずに弾き返すと、白球はライトの頭上を越えてラッキーゾーンの向こう側で弾む。清原の先制アーチでペースをつかんだPLが3-0で快勝し、全国の頂点に立った。
清原はこの大会、23打数7安打の打率.304、1本塁打5打点。1年生として鮮烈な印象を残したが、まだ序章に過ぎなかった。
1984年春:打率.471、3本塁打
1984年センバツに優勝候補の大本命として甲子園に帰ってきたPL学園。初戦の砂川北戦で清原は本塁打を含む4打数3安打4打点と打ちまくり、チームを18-7の大勝に導くと、2回戦の京都西戦でも2本塁打を放ち、チームも10-1と2試合連続2桁得点で快勝した。
しかし、準々決勝の拓大紅陵戦は6-0で完封勝ちしたものの、清原は2打数無安打。準決勝も都城の左腕・田口竜二に手こずり、延長戦に突入した。
11回裏に桑田が放った飛球をライトが落球し、一塁走者が長駆生還してサヨナラ勝ちとなったが、清原は5打数1安打。この時の都城の2番ショートは、後に「ミスター・ファイターズ」と呼ばれる田中幸雄だった。
決勝戦の相手は初出場だった東京の岩倉。試合は息詰まる投手戦となり、8回に均衡を破った岩倉が1-0で勝利し、初優勝を飾った。甲子園で初めて敗戦の味を知った清原は2打数無安打。この大会は17打数8安打の打率.471、3本塁打8打点だった。
1984年夏:打率.476、3本塁打
1984年夏の甲子園では初戦で享栄と対戦。清原はなんと3本塁打を放り込み、浪商・香川伸行の5本を塗り替える甲子園7本塁打の新記録を樹立した。4安打6打点の大暴れで14-1と圧勝し、夏の甲子園連覇へ最高のスタートを切った。
続く明石戦も5打数3安打で9-1と大勝。3回戦はセンバツ準決勝で対戦した都城に、今度は9-1と快勝した。清原は3打数1安打だった。
準々決勝の松山商戦は2-1、準決勝の金足農戦は3-2と接戦を制したが、清原のバットは計1安打と湿り始める。
決勝は名将・木内幸男監督率いる取手二。練習試合では13-0で大勝していたPLの圧倒的有利と伝えられていたが、この日の試合では取手二のエース石田文樹が清原に対して人を食ったような超スローボールを投げるなど堂々の戦いぶりだった。
9回裏にPLが清水哲の同点アーチで追いつくが、延長10回に桑田がつかまり4-8で敗戦。「木内マジック」に呑み込まれたKKコンビは春に続いて準優勝に終わった。
清原は21打数10安打の打率.476、3本塁打7打点の成績を残しながら、またしても頂点には届かなかった。
1985年春:打率.357、1本塁打
最上級生となった清原は1985年のセンバツに出場。初戦の浜松商戦で本塁打を含む2安打を放ち、11-1で大勝する。
2回戦の宇部商戦でも2安打を放ち、6-2の勝利に貢献。天理との準々決勝でも1安打を放って7-0と快勝した。
準決勝の相手は初出場の伊野商。野球どころ・高知の学校とはいえ、全国的には無名だったため、PLの勝利を疑うファンは少なかった。しかし、試合が始まると、後にドラフト1位で西武入りするエース渡辺智男の剛球がズバズバと決まる。
清原はなんと、屈辱的な3打数3三振。1-3でチームも敗れ、初めて甲子園で決勝進出を逃した。この大会では14打数5安打の打率.357、1本塁打1打点だった清原は、いよいよ最後の夏を迎える。
1985年夏:打率.625、5本塁打
迎えた1985年夏。初戦の東海大山形戦でPLは29-7と記録的大勝と収める。5打数2安打だった清原は投手としてマウンドにも立った。
3回戦は無安打だったものの津久見に3-0で快勝。準々決勝では同年ドラフト1位で大洋入りするエース中山裕章を擁して優勝候補にも挙がっていた高知商と対戦した。試合は高知商が先制するが、PLは清原、桑田のアベックアーチで逆転。6-3で競り勝った。
準決勝は初出場ながらベスト4入りして旋風を巻き起こしていた滋賀の甲西と対戦。清原は豪快な2本塁打を放って4打点を挙げ、15-2の大勝で決勝へコマを進めた。
決勝で戦う宇部商には準決勝までに4本塁打を放っていたスラッガー、藤井進がいた。しかし、頂上決戦で清原は藤井に格の違いを見せつける。
1点を追う4回、大会4本目となる弾丸ライナーの一発をレフトへ放り込んで追いつくと、再び1点を追う展開となった6回には、左中間スタンドに放り込む特大の同点アーチ。清原の甲子園通算13本目は、1大会5本目の新記録でもあった。
試合は9回に主将・松山秀明(現ソフトバンク内野守備走塁コーチ)の劇打でサヨナラ勝ち。PLが2年ぶりの全国制覇を果たした。
清原はこの大会、16打数10安打の打率.625、5本塁打8打点の驚異的な成績。1年夏から26試合の通算では91打数40安打の打率.440、13本塁打29打点と、おそらく覆されることのない成績を残している。
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