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中日の歴代監督と最高成績、立浪和義監督に託された強竜復活

2022 12/6 11:00SPAIA編集部
中日の立浪和義監督
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ⒸSPAIA

戦前に名古屋軍として創設、初代監督は池田豊

2022年、6年ぶりの最下位に沈んだ中日。立浪和義新監督を迎え、2011年以来の優勝への期待も大きかったが、66勝75敗2分けで2年連続のBクラスに終わった。

ここ10年ではAクラスがわずかに1度とチームの早期立て直しに迫られているが、かつてはAクラスが常連だった中日。過去にどのような監督がチームを率いてきたのだろうか。前身球団を含めて、個性派ぞろいの歴代監督とその成績を振り返る。

中日の歴代監督"


中日は戦前の1936年に大日本野球連盟名古屋協会(名古屋軍)として創設。初代監督には池田豊が就任し、42試合で19勝23敗の成績だった。池田はこの年限りで辞任し、翌37年からは桝嘉一が選手兼任で指揮を執り、春は8チーム中7位、秋は最下位に終わっている。

1938年、根本行都が新監督に就任。39年途中まで3季にわたって指揮し、38年秋に19勝18敗3分けでシーズン勝ち越しに成功した。しかし、39年5月30日の阪急戦に大敗したことをきっかけに監督を辞任。小西得郎が後を引き継いだ。

小西は1940年に58勝41敗5分けと勝ち越し5位に入るが、41年は開幕から低迷し、シーズン途中で退任。後任として本田親喜が選手兼任で翌42年まで監督を務めたが、成績は振るわなかった。43年は再び桝嘉一が選手兼任で指揮を執り2位に入るが、監督業は同年限りで三宅大輔に譲っている。球団名を産業軍に改称した44年は、三宅監督の下、13勝21敗1分けで4位だった。

1946年、戦争のため一時休止となっていたプロ野球が再開。チーム名は「中部日本」に改称され、戦後初の監督には竹内愛一が就任した。しかし7月に更迭されたため、杉浦清が選手兼任で後任を務めた。47年に各球団にニックネームが導入されることになり「中日ドラゴンズ」に改称。成績も67勝50敗2分けの2位と好成績を収めた。しかし、翌48年は最下位に低迷したため、杉浦は同年限りで退任している。

1949年、天知俊一が監督に就任した。2リーグに分裂した50年、球団名が「名古屋ドラゴンズ」に改称された51年と2年連続で2位に入る好成績を残したが、52年は指揮権のない総監督へ異動。坪内道典が監督を引き継ぎ、52、53年と2年連続で3位に入った。

第2次天知政権で初優勝

1954年、坪内の後任として天知が監督に復帰し、球団名も「中日ドラゴンズ」に戻したこの年、球団初の優勝を果たし、日本一にも輝いた。ただ、翌55年に球団副代表に就任するため、監督は同年限りで退任。野口明が監督を引き継いだ。選手兼任で指揮を執った野口は、初年度2位、2年目の56年も3位と健闘したが、同年限りで引退するとともに退団している。

1957年、天知が3度目の監督に就任する。2年間指揮を執り、ともに勝ち越すも順位は3位に終わった。59年からは当時エースだった杉下茂が投手兼任で監督に就任。ただ、指揮を執った2年間で公式戦の出場はゼロで、実際には監督業に専念していた。チーム成績は1年目こそ2位に入るも、翌60年は5位に終わっている。

1961年、濃人渉(登録名は貴実)が新指揮官に就任。「天知カラー」を一掃するため、生え抜き選手のトレードを次々と敢行した。この年入団した権藤博が35勝を挙げ、沢村賞と新人王を同時受賞するなど大車輪の活躍で、チームは2位に。翌62年も3位と健闘したが、球団の意向により同年限りで解任されている。

1963年、杉浦清が2度目の監督に。初年度は80勝57敗3分けの好成績で2位に入るも、2年目は開幕から低空飛行が続きシーズン途中で退任。西沢道夫が後を引き継いだが、チームは2リーグ分立後初の最下位に沈んだ。

ただ、西沢は翌64年から3年連続で2位に入る辣腕ぶりを見せる。だが、監督を務める予定だった68年に、健康上の理由でキャンプイン直前に辞任。後任として急きょ杉下茂が抜擢された。1960年以来2度目の監督となった杉下だが、チームは開幕から低迷し、6月24日に解任の憂き目に。残りのシーズンは二軍コーチだった本多逸郎が監督代行を務めた。

1969年、巨人の監督として11年間で8度のリーグ優勝、4度の日本一に輝いた水原茂を招聘。3年間指揮を執り、4位、5位、2位と優勝へ導くことはできなかったが、星野仙一、谷沢健一ら若手の育成に注力し、常勝チームの下地をつくった。

与那嶺が巨人のV10阻止、星野が生え抜き初優勝

1972年、戦後初の外国人選手として活躍した「ウォーリー」こと与那嶺要が監督に就任。1年目から2年連続で勝ち越し3位に入ると、74年には20年ぶりのリーグ優勝を果たし、巨人の10連覇を阻止した。日本シリーズではロッテに2勝4敗で敗れている。与那嶺は、その後77年まで5年間指揮を執り、同年限りで退団した。

1978年、10年ぶりの生え抜き監督として中利夫が監督に就任。しかし、故障者が続出したこともあり初年度は5位に終わる。2年目は3位でAクラス入りするが、3年目の80年に1950年以降で球団史上最低勝率の.372を記録し、12年ぶりの最下位に転落。その責任を取り、同年限りで辞任した。

1981年、与那嶺監督時代にヘッド兼投手コーチを務めていた近藤貞雄が新指揮官に就任した。初年度は5位に終わるが、2年目の82年には平野謙や中尾孝義、牛島和彦ら若手を抜擢。巨人との激しい優勝争いを制し、8年ぶり3度目のリーグ優勝を果たした。日本シリーズでは、西武と対戦して2勝4敗で敗れている。翌83年は再び5位に沈み、退任した。

1984年、現役時代「打撃の職人」としてミサイル打線の中心を担った山内一弘が監督に就任。1年目は首位と3ゲーム差の2位と好成績を収めたが、翌85年は5位、86年も低迷が続き、途中解任となった。ヘッドコーチだった高木守道がシーズン終了まで監督を代行した。

1987年、「闘将」星野仙一が監督に就任。同じくロッテの監督に就任した有藤道世とともにNPB史上初の戦後生まれの監督となった。ロッテとの4対1のトレードで2年連続三冠王の落合博満を獲得するなど積極的な補強を行い、初年度は2位。1年目のオフも積極的にトレードを敢行し、ドラフトでは立浪和義を1位で獲得した。

迎えた88年、補強が功を奏し、球団生え抜きの監督としては初となるリーグ優勝を達成。日本シリーズでは再び西武と対戦したが、1勝4敗で苦杯をなめた。星野はその後91年まで監督を務め、健康上の理由により同年限りで退任した。

落合博満が4度のリーグ優勝、53年ぶり日本一達成

1992年、星野の後任として高木守道が新監督に就任。現役時代は名二塁手として鳴らしたが、初年度は60勝70敗で12年ぶりの最下位に沈む。翌93年に2位に入ると、3年目の94年、巨人と熾烈な優勝争いを演じ、10月8日のシーズン最終戦で勝った方がリーグ優勝という日本プロ野球史上に残る10.8決戦となった。

結果的にはこの試合に敗れ、2年連続の2位となる。翌年も続投するが故障者が続出し低迷したため、シーズン途中で辞任した。残りのシーズンはヘッドコーチの徳武定祐が監督代行を務めたが、その徳武もシーズン途中で解任され、その後はシーズン終了まで島野育夫が監督代々行を務めた。

1996年、星野仙一が2度目の監督に就任した。今回も積極的にトレードを敢行し、前年の5位から2位に躍進。しかし翌97年は本拠地が狭いナゴヤ球場から広いナゴヤドームに移転した影響をもろに受け、5年ぶりの最下位に沈む。だがこの年のオフも阪神との2対2のトレードで関川浩一、久慈照嘉を獲得するなど血の入れ替えを行い、98年は2位に入る。

迎えた99年、前年オフのドラフトで福留孝介を1位、岩瀬仁紀を2位指名し、ダイエーからFA宣言した武田一浩を獲得した甲斐もあり、開幕から11連勝。その後も勢いは衰えず、11年ぶり5度目のリーグ優勝を果たした。日本シリーズではダイエーに敗れ、またしても日本一はならなかった。星野はその後2001年まで指揮を執り、健康上の理由で退任した。

2002年、前年ヘッド兼投手コーチだった山田久志が監督に昇格。横浜からFA宣言した谷繁元信を獲得するなど補強を行ったが初年度は3位に終わる。翌03年も金銭トレードで大塚晶文を獲得し戦力を補強したが、下位に低迷したため、シーズン途中で休養を余儀なくされた。ヘッド兼打撃コーチだった佐々木恭介がシーズン終了まで監督代行を務め、最終的には2位に入った。

2004年、現役時代に3度の三冠王を獲得した落合博満を監督に招聘。落合は「守り勝つ野球」を掲げ、リーグ最少記録の45失策で5年ぶり6度目のリーグ制覇を成し遂げた。日本シリーズでは西武と対戦し、3勝4敗で敗れている。

3年目の06年に再びリーグ優勝に導くが、日本シリーズでは日本ハムに破れ日本一ならず。07年はペナントレースでは2位もクライマックスシリーズ(CS)を勝ち上がり、2年連続で日本シリーズに進出。2年連続で日本ハムと対戦し、3勝1敗で迎えた第5戦、山井大介と岩瀬仁紀の継投による完全試合で、53年ぶり2度目の日本一を達成した。その後2011年まで監督を務め、8年間でリーグ優勝4回、日本シリーズ出場5回、日本一1回を記録。Bクラスは1度もなく、常勝軍団を築き上げた。

立浪和義に託された強竜復活

2012年、高木守道が2度目の監督に就任。中日OB主体の首脳陣に一新し、勝率は前年を上回ったが優勝した巨人とは10.5ゲーム差の2位。翌13年は主力に故障者が相次ぎ4位に終わったため、同年限りで退任した。

2014年、谷繫元信が1955年の野口明以来の選手兼任監督に、落合博満が球団初のGMに就任した。谷繁は「守りの野球」を掲げたが、序盤から低調で4位に終わる。翌15年も5位となり、谷繁は現役を引退。16年は監督専任でシーズンに臨むがチームは低迷し、8月に休養となった。ヘッドコーチの森繁和が監督代行として、残りのシーズンの指揮を執った。

2017年、森が正式に監督に就任。自らを繋ぎの監督であると称しチームの立て直しを図る。京田陽太、高橋周平ら積極的に若手を起用。チーム成績は在任2年間で2年連続5位だったが、チームの土台作りに注力した。

2019年、与田剛が新監督に就任。初年度は主力選手に故障や不調が相次いだこともあり、5位に終わる。だが、2年目の20年は就任時から取り組んだブルペン整備が功を奏し、6回終了時にリードしていた場合37連勝を記録するなど勝負強さを発揮。最終的に3位に入り、8年ぶりにAクラスを達成した。しかし、翌21年はまたしても主力に故障者が相次ぎ5位。成績不振の責任を取って、この年限りで辞任した。

2022年、「ミスタードラゴンズ」立浪和義が新監督に就任した。コーチ陣も大幅に刷新して臨んだが、貧打に苦しみ2016年以来6年ぶりの最下位に沈んだ。414得点、62本塁打は12球団ワーストだった。

このオフは長年主力を張ってきた平田良介を戦力外、阿部寿樹、京田陽太をトレードで放出するなど、大胆な血の入れ替えに動いている。2023年、立浪政権2年目は真価の問われる年となるだろう。

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