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日本ハムの歴代監督と最高成績 チーム再建託された新庄剛志監督は新球場元年で優勝なるか

2022 11/30 06:00SPAIA編集部
日本ハムの新庄剛志監督
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ⒸSPAIA

初代監督は球団誕生に尽力した横沢三郎

2022年、日本ハムは新庄剛志氏が新監督に就任し、世間の注目を集めた。前年オフに西川遥輝、大田泰示、秋吉亮の主力3選手を「ノンテンダー」とし、一気に新陳代謝を図ったチームは清宮幸太郎や今川優馬ら若手を積極起用。だが、戦力不足は否めず9年ぶりの最下位に終わった。

就任2年目の巻き返しに向けて戦力整備を進めている新庄日本ハムだが、過去にはどのような監督がチームを率いてきたのだろうか。前身球団も含めて、個性派ぞろいの歴代監督を振り返る。

日本ハムの歴代監督"


戦前の1936年にプロ野球球団の東京セネタースが結成、太平洋戦争によるプロ野球の一時休止を挟み、戦後の1946年に東京都を本拠地とするセネタースとして球団が発足した。初代監督にはセネタース誕生に尽力した横沢三郎が就任。初年度の成績は47勝58敗で7チーム中5位だった。

横沢はこの年限りで監督を辞任した。その後、1950年にプロ野球が2リーグ制に移行した際に、パ・リーグの審判へと転身。51年には初代の審判部長を務め、日本シリーズ、オールスターに連続出場するなど名審判として活躍した。

東急に買収され「東急フライヤーズ」となった1947年、監督に就任したのは苅田久徳。選手としては名二塁手として活躍したが、監督としては2年間で6位、5位と振るわず、48年の途中で退任した。48年は皆川定行が代理監督としてシーズン終了まで指揮を執っている。

1949年からは井野川利春が選手兼任で監督に就任したが、8チーム中7位に終わった。50年からは安藤忍が総監督に就いたが、2年連続で6位。52年から再び井野川が指揮をとり、チーム名が「東映」となった54年まで監督を務めた。

1955年には保井浩一が監督に就任したが7位と振るわず、1年で解任。56年から岩本義行が選手兼任で監督に就任。選手は同年限りで引退するが、監督は5年間務め、59年には球団初のAクラス3位入りも成し遂げた。

水原茂が球団初、大沢啓二が日本ハム初の優勝監督に

岩本の後任として1961年から指揮を執ったのは水原茂。巨人監督時代、11年間で8度のリーグ優勝、4度の日本一に導いた名将は、1年目から優勝争いを繰り広げると、大型補強を行った2年目には球団初のリーグ優勝を成し遂げた。阪神との日本シリーズも制し、初の日本一にも輝いている。その後67年まで指揮を執り、全てAクラス入りするが、優勝はこの1度のみだった。

1968年、水原の後任として「青バット」の大下弘が監督に就任した。サインなし、罰金なし、門限なしの「三無主義」を打ち出すが、チームは低迷。大下はシーズン途中で休養し、チームは球団初の最下位に終わった。

1969年、張本勲が師と仰ぐ松木謙治郎が監督に就任。しかし、初年度は4位、翌70年は「黒い霧事件」が発生し、エースの森安敏明が永久追放を受けた影響もあり5位に沈んだ。松木はシーズン途中で休養し、ヘッドコーチの田宮謙次郎が監督代行を務めた。田宮は翌年以降も監督として指揮を執ったが全てBクラスに終わり、日拓ホームとなった1973年の前期限りで解任された。

田宮の退任を受けて73年後期は土橋正幸が監督に就任。ヘッド兼打撃コーチは選手兼任で張本が務めた。チームはAクラスの3位に入るが、球団が日本ハムへ身売りしたこともあり、土橋はこの年限りで退任している。

1974年、「日本ハムファイターズ」に生まれ変わった球団の初代監督として中西太が就任した。しかし、チームは2年連続最下位に終わり、75年限りで中西は解任。後任として大沢啓二が監督に就任した。

大沢は3年目の78年に3位に入り、日本ハムとして初のAクラス入りを果たすと、翌79年には初の勝ち越し。80年後期には近鉄と最終戦の10月7日まで優勝争いを繰り広げるが、5対6で敗れ優勝を逃した(10.7決戦)。

迎えた翌81年、後期優勝を達成。プレーオフでも前期優勝のロッテを下し、日本ハムとして初のリーグ優勝を果たした。日本シリーズでは本拠地が同じ後楽園球場の巨人と対戦。史上初の全試合同一球場での開催となったシリーズとなったが、2勝4敗で敗れ日本一はならなかった。大沢はその後83年まで6年連続Aクラス入りを果たし、同年限りで辞任した。

大沢退任後、長い低迷期へ

1984年、フロント入りすることになった大沢前監督の推薦で植村義信が監督に就任するが、最下位に低迷し6月に辞任。植村を推薦した大沢が監督代行を務めるも、球団ワーストの14連敗を喫するなどチームは上向かず10年ぶりの最下位に終わった。

1985年には高田繁を新監督に招聘。高田政権は4年間続き、戦力が整わない中、田中幸雄ら若手をレギュラーに育て上げ、87、88年には連続3位でAクラス入りも果たした。88年限りで辞任している。

1989年、中日、大洋で監督を務めた近藤貞雄が新監督に就任した。3年間指揮を執ったが、全てBクラスに終わり、91年限りで辞任。後任として土橋正幸が1973年後期以来の監督復帰を果たす。だが、1年目の92年は5位に終わり、選手との関係性もこじれたため、92年シーズン終了後に解任された。

1993年、後任人事が難航したため、当時フロント入りしていた大沢が監督に復帰。初年度は2位に入るが、翌94年は投打に故障者が続出したこともあり、5球団すべてに負け越し最下位に低迷。同年限りで監督を辞任し、球団も退団した。

1995年、阪急、オリックスを日本一に導いた上田利治が監督に就任した。2年目の96年にオリックスと熾烈な優勝争いを繰り広げるが、シーズン終盤に家庭の事情により休養し、チームは2位に終わる。98年にはビッグバン打線を形成し開幕から首位を独走するも、終盤失速し、再び2に終わった。結局、日本ハムでは優勝に導くことはできず、99年限りで辞任した。

2000年、上田の後任として1994年に現役を引退して以降、解説者として活躍していた大島康徳を新監督に招聘した。初年度は破壊力抜群の打線の力で3位に入るが、2年目は最下位、3年目は5位と後が続かず、2002年限りで解任となった。

北海道移転後、優勝常連球団に

2003年、球団初の外国人監督となるトレイ・ヒルマンが新監督に就任。MLBヤンキース傘下のマイナーで11年監督経験を積んだヒルマンは初年度こそ5位に終わるが、北海道移転元年の04年は3位に入った。

05年は再び5位となるが、翌06年にリーグ制覇へ導くと、中日との日本シリーズも制し、44年ぶりの日本一を達成。07年には球団新記録となる14連勝を記録してリーグ連覇するなど、目を見張る成績を残した。翌08年からMLBロイヤルズの監督に就任することが決まり、07年限りで日本ハムを退団している。

2008年、ヒルマンの後任として梨田昌孝が新監督に就任した。2年目の09年にリーグ優勝を果たすなど、チームを率いた4年のうち3年でAクラス入り。唯一のBクラス(4位)だった2010年も含めて全シーズン勝ち越すなど、常勝チームを作り上げた。

2012年、監督経験のない栗山英樹が新監督に就任した。エースのダルビッシュ有がメジャーへ移籍し、厳しい戦力での監督人生のスタートだったが、1年目から見事にリーグ優勝。この年のドラフト1位で大谷翔平が入団し、投手と打者の「二刀流」としての育成にも尽力した。

5年目の16年には就任初年度以来4年ぶりの優勝を果たすと、日本シリーズでは広島を4勝2敗で下し、06年以来10年ぶり3度目の日本一へ導いた。栗山はその後、20年まで10年の長きにわたって指揮を執り、球団史に残る監督として名を残した。

2022年、新監督として引退以来の球界復帰となる球団OBの新庄剛志が就任した。登録名は「BIG BOSS」、ユニフォーム・球団公式ロゴが11年ぶりに刷新されるなど、球団として新たな船出を盛大に盛り上げたが、チーム成績は9年ぶりの最下位に終わっている。

2023年は登録名を「BIG BOSS」から本名の新庄剛志に戻し心機一転を図る新庄監督。北広島市の新球場「エスコンフィールド」もオープンし、開幕からどんなドラマを見せてくれるのか、ファンならずとも楽しみでならない。

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