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ロッテの歴代監督と最高成績、吉井理人新監督に託された常勝軍団の構築

2022 10/24 11:00SPAIA編集部
吉井理人,Ⓒゲッティイメージズ
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Ⓒゲッティイメージズ

創設1年目に初代日本一に

2年連続2位から一転、2022年5位に終わったロッテ。5年間指揮を執った井口資仁監督が辞任を発表し、後任として吉井理人氏が監督に就任した。来季は吉井新体制で18年ぶりのリーグ優勝を目指すことになる。

2025年までに常勝軍団になるという中期ビジョンを掲げているマリーンズ。では、これまでどのような監督がチームを率いてきたのだろうか。個性派ぞろいの歴代監督を振り返る。

ロッテの歴代監督"


1リーグ8球団制からプロ野球は一層の発展を目指し2リーグ制へ移行、オリオンズは新しくパシフィックリーグに所属する球団として誕生した。1949年9月、毎日新聞社を親会社とする毎日球団が設立され、毎日オリオンズが結成。初代監督となる総監督に湯浅禎夫が就任した。

1950年、オリオンズの初代監督となった湯浅は、2位以下を大きく引き離して81勝34敗5分けの成績で、パ・リーグ初代王者へと導く。さらに、第1回の日本シリーズ(当時の呼称は日本ワールドシリーズ)でも、セ・リーグ覇者の松竹ロビンスを4勝2敗で下し、初代日本一に輝いた。

しかし、翌51年は3位に終わると、52年に事件が起こる。7月16日、福岡・平和台球場での西鉄戦で、毎日が故意に試合をノーゲームにしようと策略したため、暴動が発生したのだ。湯浅総監督はこの責任を取る形で更迭され、別当薫が監督に就任した。この年は最終的に2位に終わった。シーズン終了後に湯浅は総監督に復帰している。

1953年は若林忠志が指揮を執り、西宮球場での対阪急17回戦でNHKによるプロ野球初のテレビ中継が行われた。チーム成績は56勝62敗2分けで5位に終わっている。

「ミサイル打線」で10年ぶりに優勝

パ・リーグが8球団制となった1954年からは別当薫が選手兼任監督に就任。55年は“安打製造機”榎本喜八が入団し新人王を獲得、57年オフには大映と合併し、大毎オリオンズが誕生した。59年に榎本、山内和弘、田宮謙次郎らで「ミサイル打線」を形成し、別当監督は自身最高成績の2位でシーズンを終えたが、このオフに辞任した。

1960年からは前年ヘッドコーチを務めた西本幸雄が監督に昇格。前年に引き続きミサイル打線が破壊力を見せ、18連勝のリーグ新記録を樹立。10月に10年ぶり2度目の優勝を果たす。しかし、大洋ホエールズとの日本シリーズでは4連敗を喫したため、西本監督は解任された。また、このオフに毎日側の役員が総退陣し、大映が経営権を握ることになった。

西本の後を受けて1961年から宇野光雄が監督に就任するも、2年連続4位に終わり、1962年限りで解任された。1963年から本堂保次が指揮を執り、9月に球団結成1000勝を達成したが、5位と低迷。翌64年、東京五輪が開催されるこの年に球団名を「東京オリオンズ」に改めるも4位と上向かず、65年途中で本堂監督は休養となり、濃人渉が監督代行を務めた。

1966年は前年2軍監督を務めた田丸仁が監督に就任するも4位、67年からは戸倉勝城が指揮を執るも成績不振でシーズン途中で解任され、濃人渉が後を引き継いだ。翌68年も監督を務めた濃人は、新外国人のアルトマンとロペスの活躍もあり、8年ぶりのAクラスとなる3位に入った。

シーズン前にロッテとの業務提携が発表され、球団名もロッテオリオンズに改称された1969年は2年連続の3位に入ると、翌70年に10年ぶりとなるリーグ優勝を成し遂げた。なお、日本シリーズは巨人に1勝4敗で敗れている。

濃人は71年も指揮を執るが、7月13日の阪急戦(西宮)で、江藤慎一のハーフスイングの判定をめぐり猛抗議。結局、放棄試合となり、10日後に濃人は更迭され、大沢啓二2軍監督が監督に昇格した。この年2位に入った大沢だったが、翌年は5位に終わり、オフに退団している。

金田監督が24年ぶり日本一に輝く

1973年、“400勝投手”金田正一が監督に就任する。この年から前・後期制となった中、惜しくも2シーズンとも2位だったが、翌年の後期に優勝。阪急とのプレーオフを制してリーグ優勝を飾ると、日本シリーズでも中日を破り、24年ぶりの日本一に輝いた。その後78年まで監督を務め、球団通算2000勝を達成するも、再び優勝へ導くことはできず、この年限りで辞任することとなった。

1979年、かつての4番打者・山内一弘が監督に就任した。80年に張本勲が史上初の3000安打を達成、81年には落合博満が首位打者に輝くなど「新ミサイル打線」をつくり上げ、2年連続で前期優勝を飾るも、リーグ優勝には手が届かず。81年シーズン限りで山内監督は辞任した。

1982年からは山本一義が指揮を執ったが、初年度は落合が三冠王に輝くもチームは低迷。翌年も球団初の最下位に転落したため、このオフに解任となった。

1985年、稲尾和久が監督に就任。1年目に2位、2年目も落合が2度目の三冠王を獲得する活躍もあり2位と2年連続Aクラス入りを果たす。しかし、翌86年はBクラスの4位に転落し、稲尾は監督を退任した。

1987年、前年に現役を引退した“ミスターロッテ”有藤通世が監督に就任。だが、オフにトレードで落合が抜けた打線が低調で5位に終わる。翌88年、伝説のダブルヘッダー「10.19」で、近鉄の優勝を阻止するも成績は最下位、翌年も最下位に沈んだため、この年限りで有藤監督は辞任した。

第二次バレンタイン政権、西村監督が下剋上日本一

1990年、金田正一が12年ぶりに監督へ復帰した。しかし、1年目5位、2年目最下位とチームは上向くへ気配を見せず、金田監督も解任。92年からは八木沢壮六が監督を務めるが、こちらも2年連続Bクラスで、3年目の途中に成績不振で休養となる。その後は、中西太が代理監督を務めたが、最終的に5位に終わった。

1995年、球界初のゼネラルマネージャー(GM)に広岡達朗が就任。広岡はメジャーリーグでの監督経験のあるボビー・バレンタインを監督に招へいした。すると、チームは10年ぶりのAクラスとなる2位に躍進。翌年優勝への気運も高まったが、この年のオフにバレンタイン監督は解任され、江尻亮ヘッドコーチが後を引き継ぐこととなった。しかし、96年は前年と打って変わって投打がかみ合わず5位。オフには広岡GM、江尻監督ともに辞任となった。

1997年からは近藤昭仁新監督が就任するも2年連続最下位となり、98年限りで退団。99年からは山本功児監督が2003年まで指揮を執るも、最高成績は4位に終わった。このオフ、バレンタイン監督の復帰が発表された。

第二次バレンタイン政権となった2004年、チームは9年連続Bクラスの4位に終わる。だが、翌05年にこの年から始まったセ・パ交流戦で優勝するなど快進撃を見せ、ソフトバンクとのプレーオフを制し31年ぶりのリーグ優勝を果たした。日本シリーズでも阪神に4連勝し、31年ぶりの日本一にも輝いている。バレンタイン監督はその後、07年に2位に入るもそれ以外の年はBクラスに終わり、09年限りで退団となった。

2010年から指揮を執ったのは西村徳文。オリックスとの最終戦を制し、3年ぶりにクライマックスシリーズへ進出すると、2位・西武、1位ソフトバンクを連破し、CS史上初のシーズン3位からの日本シリーズに進出した。中日との日本シリーズでもシリーズ初の15回引き分けなどの死闘の末、5年ぶり4度目の日本一を達成した。しかし、西村監督は翌11年6位、12年も5位に沈んだため、この年限りで退任となった。

2005年以来のリーグ優勝目指す吉井監督

2013年からは伊東勤新監督が就任。1年目は3位に入りCS進出を果たし、15、16年も2年連続3位となったが、リーグ優勝には手が届かず、6年ぶりに最下位となった17年限りで辞任した。後任として、この年限りで現役を引退した井口資仁の就任が発表された。

井口資仁監督は1年目は5位、2年目は4位だったが、3年目の2020年から2年連続2位。特に2021年はオリックスと最後まで優勝を争いながら惜しくも頂点に届かなかった。2022年は優勝を目指して「頂点を、つかむ。」というチームスローガンを掲げて臨んだが、まさかの5位。井口監督は5シーズンで通算324勝338敗30分けの成績を残して退任した。

吉井新監督で臨む2023年。日米で活躍した指揮官の経験を最大限に活かし、今度こそ頂点をつかみたい。

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