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江夏豊に4球団競合した1966年ドラフトの答え合わせ、八木沢荘六は3球団競合

2022 10/9 06:00SPAIA編集部
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川上巨人がV2達成した1966年

甲子園で中京商(愛知)が春夏連覇を果たした1966年。プロ野球では、川上哲治監督率いる巨人が日本シリーズで鶴岡一人監督率いる南海を下して2連覇した。

同年のドラフト会議は、国体不出場の高校や大学、社会人を対象として9月に第1次ドラフトが行われ、国体に出場した高校や大学、一部の社会人を対象とした第2次ドラフトは11月に行われた。

当時は獲得希望選手名簿に希望順位を記載して提出し、1位に限り、他球団と重複すれば抽選するシステム。2位以下はウェーバー方式と逆ウェーバー方式が採用され、ウェーバーの指名順はサンケイ―近鉄―広島―東京―大洋―阪急―阪神―西鉄―中日―東映―巨人―南海に決まった。

1966年ドラフト1巡目指名選手の成績


各球団1巡目指名選手のプロ入り後の成績を振り返る。

早稲田大・八木沢荘六は東京が獲得

サンケイは1次で静岡商高の奥柿幸雄を1位指名した。現役生活は4シーズンと短かったが、222試合出場で55安打、3本塁打の成績が残っている。2次では日本軽金属の加藤俊夫を指名。仙台育英高時代に大洋の2位指名を拒否し、社会人を経てプロ入り。1972年から東映、1982年から大洋でプレーし、通算1507試合出場、962安打、116本塁打をマークした。

近鉄は1次でPL学園高の右腕・加藤英治を指名した。後に阪急入りして2000安打を放つ加藤秀司は同姓のチームメイトで、2年春、3年春のセンバツに出場。しかし、プロでは1勝も挙げられずユニフォームを脱いだ。2次では平安高の左腕・門野利治を指名。しかし、加藤と同じく白星をつかめないまま引退した。

広島は1次で広陵高の強肩捕手・須山成二を指名した。プロ入り後に投手に転向して2試合に登板したが、1勝もできずに引退した。2次では3球団競合した松山商高の西本明和を指名。夏の甲子園で準優勝したサイドスローは1969年に5勝を挙げたが、翌1970年に野手転向し、引退までに通算152試合に出場して45安打、3本塁打を放った。

ロッテの前身、東京は1次で奥柿と三重高・水谷孝を抽選で外し、北陽高の園田喜則を指名した。通算47試合出場にとどまり1972年に引退。2次では3球団競合の早稲田大・八木沢荘六を引き当てた。作新学院高時代に春夏連覇し、東京六大学通算24勝をマークした右腕は、1976年に15勝を挙げるなど通算71勝66敗8セーブをマーク。引退後はロッテの監督や西武、横浜、巨人、阪神、オリックスなどでコーチを務めた。

大阪学院大高・江夏豊は阪神入り

大洋は1次でサッポロビールの松岡功祐を指名。九州学院高から明治大を経て社会人で活躍し、プロ入り後は大洋ひと筋で11年間プレーして通算800試合出場、358安打を記録した。2次では八木沢を抽選で外し、近畿大の山下律夫を指名。松山商高3年春のセンバツでベスト4入りし、関西六大学リーグ通算18勝を挙げた右腕は、3年目に15勝を挙げるなど通算103勝101敗16セーブをマークした。クラウンライター、南海と移籍して1982年に引退した。

阪急は1次で2球団競合した三重高の水谷孝を引き当てた。同年に春夏連続で甲子園出場した右腕は、2年目に15勝を挙げ、日本シリーズにも登板。1976年に島野修との交換トレードで巨人に移籍したが、1年で阪急に復帰し、通算53勝27敗1セーブの成績を残して引退した。2次では西本を抽選で外し、中京商高の平林二郎を指名。甲子園で8盗塁をマークして春夏連覇に貢献した俊足で、1974年には26盗塁するなど通算573試合出場、48安打、66盗塁の成績を残した。

阪神は1次で4球団競合の大阪学院大高・江夏豊を引き当てた。2年目の1968年には25勝で最多勝に輝き、現在もNPB記録の401奪三振をマーク。南海、広島、日本ハム、西武とわたり歩いて通算206勝158敗193セーブを記録した。2次では甲府工高の4番・西村公一を指名。大型内野手として期待されたが、通算118試合出場で26安打、2本塁打にとどまり、引退後はプロゴルファーに転身した。

西鉄は1次で三池工高の上田卓三を抽選で外し、浜田高の岡村佳典を指名。1969年に10試合に登板したが、1勝も挙げることができないまま引退した。2次では2球団競合した報徳学園高の荒武康博を獲得。甲子園で満塁本塁打を放った強打に期待は高かったが、プロ入り後は86試合出場で1本塁打に終わった。

広島1次2位で三村敏之、大洋2次2位で平松政次

中日は1次で別府鶴見丘高の左腕・大場隆広を指名した。1971年から近鉄、1976年に南海へ移籍し、通算37試合に登板したが1勝も挙げることなくユニフォームを脱いだ。2次では春夏連覇した中京商高の外野手、伊熊博一を指名。地元のスター候補として期待されたが、プロでは43試合出場にとどまり、1973年に引退した。

東映は1次で江夏を抽選で外し、日大一高の桜井憲を指名。1974年に引退するまで通算85試合登板、6勝17敗だった。2次では八木沢、荒武を外し、中央大の高橋善正を指名。東都リーグ通算35勝をマークした右腕は、1年目に15勝を挙げて新人王に輝いた。1973年に小坂敏彦、渡辺秀武との交換トレードで巨人に移籍。通算384試合登板、60勝81敗7セーブの成績を残した。

巨人は1次で江夏を抽選で外し、伊野商高の山下司を指名。日本ハムに移籍した1977年に引退するまで通算191試合に出場して20安打、1本塁打だった。2次では2球団競合の立教大・槌田誠を引き当てた。ヤクルトに移籍した1977年に引退するまで通算479試合に出場して107安打、14本塁打だった。

南海は1次で2球団競合の三池工高・上田卓三を引き当てた。前年の夏の甲子園で全国制覇した時の2年生エースは、プロ入り後は主にリリーフとして活躍。1976年から阪神に移籍し、南海に復帰した1978年に引退した。通算205試合登板で13勝13敗2セーブだった。2次では槌田を抽選で外し、法政大の中村之保を指名。1971年に阪神に移籍し、通算168試合に出場して25安打だった。

2位以下では、広島商高・三村敏之(広島1次2位)、日本石油・平松政次(大洋2次2位)、駒澤大・大下剛史(東映2次2位)、河合楽器・武上四郎(サンケイ8位)らがプロ入り。江夏を筆頭に実績を残した選手もいる半面、まだまだ入団拒否する選手も多い時代だった。

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