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巨人1位が入団拒否した1973年ドラフトの答え合わせ、阪神6位に掛布雅之

2022 10/3 06:00SPAIA編集部
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川上巨人がV9達成した1973年

後に広島で活躍する達川光男がいた広島商が夏の甲子園で優勝した1973年。プロ野球では、シーズン最終戦で阪神とのデッドヒートを制した川上哲治監督率いる巨人が9連覇を達成した。

同年のドラフト会議には、前日に日拓ホームフライヤーズを買収したばかりの日本ハムが初参加した。当時は予備抽選で指名順を決定し、奇数順位は予備抽選の1番から12番へ、逆に偶数順位は12番から指名していく変則ウェーバー方式。現在のように重複すれば抽選というルールではないため、予備抽選による運、不運が大きかった。

予備抽選の結果は大洋―南海―近鉄―日本ハム―中日―阪急―広島―阪神―太平洋―巨人―ヤクルト―ロッテに決まった。

1975年ドラフト1巡目指名選手の成績


各球団1巡目指名選手のプロ入り後の成績を振り返る。

大洋は慶応義塾大・山下大輔、近鉄は駒澤大・栗橋茂

大洋は慶応義塾大の山下大輔を1位指名した。4年時に主将を務めて東京六大学リーグ通算102安打を放った強打者は、1981年にベストナインに選ばれ、ダイヤモンドグラブは8年連続受賞するなど攻守で活躍。通算1609試合、1378安打、129本塁打をマークし、引退後は2003年から2年間、横浜の監督を務めた。

南海は南宇和高の藤田学を指名した。1、2年目は二軍でじっくりトレーニングを積み、3年目の1976年に11勝を挙げて新人王。翌1977年から2年連続16勝を挙げるなど引退までに通算72勝65敗1セーブの成績を残した。引退後はダイエー、オリックスなどでコーチを務めた。

近鉄は駒澤大の栗橋茂を1位指名。「和製ヘラクレス」と呼ばれたパワーで1979年に32本塁打、翌1980年に28本塁打でリーグ連覇に貢献するなど通算215本塁打のスラッガーとして活躍した。1980年には最高出塁率にも輝き、1989年に引退した。

参入したばかりの日本ハムは四国電力の鵜飼克雄を指名した。徳島商から同志社大を経て社会人野球で活躍していた左腕は、2年目の1975年にプロ初完封初勝利を記録したが、一軍ではこれが唯一の白星。1977年に広島に移籍したものの一軍出場は果たせず、同年限りで引退した。

中日は藤波行雄、阪神は佐野仙好の中央大コンビが1位

中日は中央大の藤波行雄を1位指名した。静岡商2年生だった1968年に夏の甲子園で準優勝し、大学では全日本選手権優勝や東都リーグ通算133安打など輝かしい実績を残した左打者。1年目から90試合に出場し、1987年に引退するまで中日ひと筋で通算1146試合出場、539安打、24本塁打をマークした。

阪急は作新学院高の「怪物」江川卓を指名したが入団拒否。江川は法政大に進学し、4年後にはクラウンライターの1位指名も拒否した。翌年「空白の一日」に巨人と電撃契約したが無効とされ、阪神入団後に小林繁との交換トレードという異例の措置で巨人入りした。

広島は駒澤大の木下富雄を指名。近鉄1位の栗橋茂とともに同年の明治神宮大会で優勝し、プロ入り後はユーティリティプレイヤーとして活躍した。通算1364試合出場で583安打、48本塁打の成績を残した。

阪神は中央大の強打者・佐野仙好を1位指名。中日1位の藤波行雄とともに東都リーグで3度の優勝を果たし、プロ入り後は同年6位入団の掛布雅之とのサード争いに敗れてレフトに転向した。1981年には最多勝利打点(15)のタイトルを獲得し、1985年の優勝にも貢献。通算1316安打、144本塁打、564打点の成績を残し、引退後は長らくスカウトを務めた。

巨人1位の愛知学院大・小林秀一は入団拒否

太平洋は大鉄高の山村善則を指名した。「有藤通世2世」と期待され、1978年には打率.288、13本塁打と活躍。1982年に片平晋作、黒田正宏との交換トレードで山下律夫とともに南海に移籍し、1989年に引退するまで1153試合出場、739安打、70本塁打の成績を残した。

巨人は愛知大学リーグで21勝を挙げた愛知学院大のアンダースロー小林秀一を指名したが入団拒否。卒業後は熊谷組でプレーし、母校・愛知学院大の監督も務めた。巨人の1位指名を拒否した唯一の選手であり、同年は2位の糸魚川商工高・黒坂幸夫、3位の住友金属・中村裕二、5位の新日鉄堺・尾西和夫と計4人が巨人入団を拒否している。

ヤクルトは日立製作所の佐藤博を指名した。1971年に大洋4位、1972年にロッテ4位を拒否していたが、3度目の指名でプロ入り。大型右腕として期待されたものの一軍では10試合に登板して1勝も挙げられず、1979年にユニフォームを脱いだ。

ロッテは札幌商高の佐藤博正を指名した。3年夏の南北海道大会で計62回で93奪三振をマークし、甲子園に出場した右腕。しかし、プロ入り後は1試合に登板しただけで白星をつかむことはできず、1980年に引退した。

2位以下では習志野高・掛布雅之(阪神6位)がプロ入りし、後に「ミスタータイガース」と呼ばれる強打者となった。一方で、東邦高・山倉和博(南海2位)、自動車工業高・袴田英利(ロッテ3位)ら後にプロで活躍する選手が入団を拒否しており、時代を反映しているのも特徴だ。

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