川上巨人がV5達成した1969年
夏の甲子園で松山商(愛媛)が三沢(青森)との延長18回引き分け再試合を制して優勝した1969年。プロ野球では、巨人が日本シリーズでパ・リーグ3連覇の阪急を下して5連覇を達成した。
同年のドラフト会議では三沢高のエース太田幸司や早稲田大・谷沢健一が目玉だった。当時は予備抽選で指名順を決定し、奇数順位は予備抽選の1番から12番へ、逆に偶数順位は12番から指名していく変則ウェーバー方式。現在のように重複すれば抽選というルールではないため、予備抽選による運、不運が大きかった。
予備抽選の結果は中日―阪神―大洋―南海―西鉄―近鉄―東映―広島―ヤクルト―ロッテ―巨人―阪急に決まった。

各球団1巡目指名選手のプロ入り後の成績を振り返る。
大洋1位の早稲田大・荒川堯はプレーせずにヤクルト移籍
1番くじを引いた中日は早稲田大の谷沢健一を1位指名した。習志野高時代に阪急の4位指名を拒否して進学し、東京六大学リーグ通算111安打、打率.360をマーク。プロ1年目から126試合に出場して新人王に輝くと、1976年に打率.355、1980年に打率.369で2度の首位打者を獲得した。通算1931試合出場、2062安打、273本塁打、969打点の成績を残し、1986年に引退した。
阪神は東海大の上田二朗を指名した。4年時の全日本大学選手権で優勝し、首都リーグ通算37勝をマークしたサブマリン。1年目から9勝を挙げると、1973年には22勝14敗、防御率2.23の好成績を残した。1980年に金銭トレードで南海に移籍し、1982年に阪神に復帰して同年限りで引退。通算361試合登板で92勝101敗3セーブだった。
大洋は早稲田大の荒川堯を指名した。大学では中日1位の谷沢とクリーンアップを組み、東京六大学リーグ通算90安打、19本塁打をマーク。本人は巨人かアトムズ(ヤクルト)を希望していたため入団を拒否し、アメリカに野球留学したが、翌1970年10月に大洋と契約し、同年12月にヤクルトに移籍した。ヤクルトへの移籍を前提として大洋に入団する密約説が囁かれていた。プロ入り後は1972年に18本塁打を放つ活躍を見せたが、視力の低下などのため1975年に引退。通算225試合に出場して195安打、34本塁打だった。
南海は東都リーグ通算20勝右腕の日本大・佐藤道郎を指名した。1年目から55試合に登板して18勝を挙げ、防御率2.05でタイトルを獲得。1974年にも最優秀防御率(1.91)に輝き、1972年に最高勝率、1974年と1976年に最多セーブを獲得するなど主にリリーフとして活躍した。大洋移籍後の1980年に引退するまで通算500試合登板、88勝69敗39セーブの成績を残した。
元祖甲子園のアイドル・太田幸司は近鉄が1位指名
西鉄は盛岡鉄道管理局のアンダースロー、泉沢彰を1位指名した。1年目にプロ初勝利を挙げたが、これが唯一の白星。通算34試合登板、1勝5敗の成績を残してユニフォームを脱いだ。
甘いマスクでアイドル的人気を誇った三沢高の右腕・太田幸司は近鉄が指名した。1年目は1勝にとどまったものの、1972年まで3年連続オールスターにファン投票で出場するなど人気は衰え知らず。投手としては1974年に10勝、翌1975年に12勝を挙げるなど、ようやく実力が人気に追いついた。1983年に巨人、1984年に阪神に移籍して引退。通算318試合で58勝85敗4セーブだった。
東映はリッカーミシンの右腕・片岡建を指名した。横浜商高、神奈川大を経て社会人時代は都市対抗などで活躍。2年目に24試合に登板したものの、一軍では1勝も挙げられないまま引退した。
広島は日本鉱業日立の右腕・千葉剛を指名した。東北高時代に東映の5位指名を拒否して社会人入りし、都市対抗にも出場。しかし、プロでは大成せず、7試合に登板したのみだった。
アトムズ1位は八重樫幸雄
1969年はサンケイからヤクルトに球団譲渡され、この年だけ球団名をアトムズとしていた。1位指名された仙台商高の捕手・八重樫幸雄は、1993年まで24年間、ヤクルトひと筋に現役を全う。通算1348試合出場、773安打、103本塁打の成績を残した。
ロッテは電電四国の前田康雄を指名した。松山北高から東洋大を経て社会人でプレーし、2年目にプロ初勝利。しかし、以降は出番が減り、太平洋に移籍後の1976年にユニフォームを脱いだ。通算60試合登板、1勝7敗だった。
巨人は早稲田大の小坂敏彦を指名した。高松商時代に春夏連続で甲子園に出場し、大学では東京六大学通算22勝をマークした左腕。3年目までに計7勝を挙げたが、1973年に高橋善正との交換トレードで渡辺秀武とともに日拓ホームに移籍し、1976年に引退した。通算105試合、9勝8敗2セーブの成績を残した。
阪急は大昭和製紙の三輪田勝利を指名した。 中京商高から進学した早稲田大では東京六大学リーグ通算23勝を挙げた右腕。プロ1年目に初勝利を挙げたものの、通算4勝で1973年に引退した。
2位以下では、比叡山高・間柴富裕(茂有、大洋2位)、富士鉄広畑・神部年男(近鉄2位)、クラレ岡山・門田博光(南海2位)、八幡浜工高・河埜和正(巨人6位)、駒澤大・大矢明彦(アトムズ7位)、駒澤大・内田順三(アトムズ8位)、延岡商高・柳田豊(西鉄8位)らがプロ入り。早稲田大から谷沢、荒川、小坂の3人が1位指名され、後にヤクルト入りする小田義人らも含め同期7人がプロ入りしている。
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