ライオンズ黄金期の正二塁手
現西武ライオンズ監督、辻発彦は球史に残る西武ライオンズ黄金期の正二塁手として、攻守に多大な貢献をした名選手だった。
佐賀県立佐賀東高、日本通運浦和から1983年のドラフト2位で西武に入団。入団当時、すでに25歳と遅いプロ入りだったが、即戦力二塁手として1年目から活躍。西武は辻の2年目に当たる1985年から94年までの10シーズンでリーグ優勝9回、日本一6回という空前の黄金期を作るが、辻はその中心選手の一人だった。
辻はこの黄金期に、石毛、秋山、清原と錚々たる強打者に次ぐ1103安打(4位)を打っている。本塁打は44本と少なかったが、打率は.283。しかも10年で211盗塁。2番や7番で「つなぐ打者」が本来の役割だったが、リードオフマンや9番打者など様々な打順でチームに貢献した。
監督は巨人V9時代の正捕手だった森祗晶(現役時代は森昌彦)。選手には単に打つだけではなく、各打者に様々な役割を求めたが、辻は森監督のさまざまな要望に高いレベルで応えることができた。
GG賞8回受賞、37歳でヤクルトへ移籍
入団当初は三塁手だった辻だが、2年目から二塁手に。二塁手として史上最多(当時)の8回ものゴールデングラブを獲得している。若い頃は抜群の守備範囲の広さを誇った。辻が2度目、3度目のゴールデングラブを獲得した1988、89年のパ・リーグの二塁手の守備成績を見てみよう。
守備範囲の広さを示すRFG(レンジファクター=刺殺数と補殺数の和を試合数で割った数値)は、2年連続でリーグ1位。1988年には30歳になっていた辻だが、並み居る二塁手の中でも抜群のフットワークの良さを見せていた。
二遊間を組んだのは主に田辺徳雄。1989年には田辺もゴールデングラブを受賞している。この2年間、辻は圧倒的な補殺数を記録した。誰よりも多くのゴロを処理したと言うことになる。
以後、辻の守備範囲は徐々に狭くなり、1991年のRFGは4位(4.95)、92年は5位(4.70)、93年は4位(4.97)と抜群の守備範囲ではなくなった。しかし辻はゴールデングラブを受賞し続けた。数字はともかく、最強軍団の不動の二塁手として、鉄壁の二遊間を構築し、絶対の信頼感を得ていたことが大きいだろう。
1993年には打率.319で、当時近鉄にいた石井浩郎に1分近い差をつけて首位打者に輝く。辻は短く持ったバットを鋭く振り抜くアベレージヒッターでもあったのだ。また選球眼もよく、出塁率は.350を上回った。
1995年オフに戦力外となり、コーチ就任を要請されたがこれを断り、1996年に野村監督率いるヤクルトスワローズに37歳で入団した。4月に指を骨折するなど逆風からのスタートだったが、この年打率.333とキャリアハイをマーク。中日のパウエルに7厘及ばなかったが打率2位となった。それ以上に評価すべきは、二塁手としても極めて優秀な成績を残したことだろう。
名将のもと学び続けた野球人生
辻はセ・リーグの二塁手の中で、正田耕三に次ぐ2位のRFGを記録。37歳にしてトップクラスの守備範囲だった。守備率も高く、貢献度が高かった。翌年以降は辻の前任の二塁手だった土橋勝征の控えに回ることが多くなったが、1999年41歳を迎えるシーズンまで現役を全うした。
引退後はヤクルトや横浜などでコーチを歴任。解説者としても活躍した。2007年には中日ドラゴンズの二軍監督、2010年にはコーチとなり、落合博満監督率いる黄金期の中日を支えた。そして2017年、古巣・西武の一軍監督に就任。58歳という遅咲きでの初監督就任となった。
広岡達朗率いる西武に入団し、その後森祗晶のもと、最強軍団・西武の主力の一人として活躍。37歳で野村克也率いるヤクルトに移籍し、引退後は落合博満率いる中日で参謀格として働いた。名将たちのもとで「勝つためにはどうすればいいか」を学び続けた野球人生だったと言ってよい。
その経験は監督になってから活かされ、就任後の2018年と19年には2年連続リーグ優勝を果たした。CSでは西武時代の同僚、工藤公康が率いるソフトバンクに敗れたものの、山川穂高、森友哉、源田壮亮など台頭する新戦力をうまく組み合わせ時代を築いた。菊池雄星、浅村栄斗、秋山翔吾と主力選手がチームを離れる中、最近は苦労しているが「勝つ野球」をだれよりも知る名将は、必ずやチームを立て直すことだろう。
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