高知ファイティングドッグスへの入団は新しい人生のスタート
2020年に引退した藤川球児が解説者として評判を上げている。論理的でなおかつ分かりやすい解説は、コアなファンからライトな層までを満足させるに十分だ。そんな藤川がメジャーから帰国し、NPBではなく、独立リーグで投げたのは今から7年前だった。
2015年6月1日、四国アイランドリーグPlusの高知ファイティングドッグスは、藤川球児の入団を発表した。この年、テキサス・レンジャーズで投げた藤川は5月中旬にDFA(戦力外)となり、MLBの他球団移籍か、NPB球団への復帰かと報道されていた。
6月8日、高知市の老舗旅館の宴会場に設けられた入団記者会見場には、東京のキー局をはじめ、多くの報道陣が押し寄せた。「自分の新しい人生のスタートとしては、最高の決断ができたんじゃないかと思う」。藤川は記者会見の冒頭でそう切り出した。記者会見に先立って司会者が藤川のプロフィールを紹介すると「身長ですが、僕は184㎝あります。182㎝ではありません」と話して軽い笑いを取った。
藤川は高知市出身。高知商時代は兄の順一とバッテリーを組み、1997年の夏の甲子園に出場した。1998年のドラフト1位で阪神に入団。1980年生まれの「松坂世代」を代表する投手であり、2003年に救援投手に転向してからは勝利の方程式「JFK」のセットアッパーとして2年連続最多ホールド、2007年からはクローザーとして圧倒的な数字を残してきた。また侍ジャパンの代表として2006年、2009年のWBCの連覇に貢献した。
2012年には海外FA権を行使してシカゴ・カブスに移籍。2013年にトミー・ジョン手術を受けたこともあり、MLB通算では29試合1勝1敗2セーブ1ホールド、防御率5.74に終わった。
入場料収入の10%は児童養護施設へ寄付
独立リーグにNPBの選手が移籍することは珍しくはなかったが、藤川のようにNPBを代表するスター選手がキャリア半ばで独立リーグに入団することは、ほとんどなかった。高知ファイティングドッグスは地元というだけでなく、兄の順一がGMを務めたこともあり因縁は深かったが、球団側は超大物の入団にいろめきだった。
会見には梶田宙社長と弘田澄男監督のほかに、当時の四国アイランドリーグplusの運営会社株式会社IBLJの鍵山誠CEOも出席した。梶田宙社長は前年まで高知で10年間、外野手としてプレーし、この年から社長に就任したが、藤川よりも2学年年下だった。
藤川との契約は、とりあえずNPB球団への移籍期限である7月31日までであり、その後については未定だと話した。
四国アイランドリーグplusの日程では前期は5月31日に終了し、後期は8月から始まるため当初はオープン戦だけの出場と発表された。阪神の大先輩だった弘田監督は「藤川君とは1試合1試合の契約なので、その都度話し合っていきたい」と話した。ただし藤川は無報酬で投げ、登板した試合の入場料収入から10%を児童養護施設に寄付すると発表された。
藤川はこの会見で「これまで野球だけの人生で、子どもたちとの時間を作ることができなかった。夏の間は子どもたちに高知の自然を体験させてやりたい。バーベキューをしたり、魚釣りをしたりいろいろ経験させたい。そしてチームのメンバーには、僕の経験したことを少しでも学んでもらえるようにしたい。一瞬一瞬が大事、責任を感じている」と語った。
わずか100日足らずの充電期間を経て阪神に復帰
6月20日には高知市野球場で香川徳島連合チームとのオープン戦が行われ、藤川が先発した。試合前の練習では、ブルペンやグラウンドで高知の選手にアドバイスする姿が見られた。選手たちは大スターの藤川球児が自分と同じユニフォームを着ていることが信じられないという感じで、おずおずと言葉を交わしていた。報道陣の数は多く、カメラの砲列が並んでいた。
試合開始、藤川は先頭打者を三塁ゴロに仕留めたが、その打球をこの年、練習生としてブルキナファソから入団したばかりの18歳、サンホ・ラシィナがファンブル。球場内は一瞬凍り付いたが、藤川はラシィナに柔和な笑顔を見せた。この回に失点したが、藤川は2回から4回までを無失点で降板した。
ⒸSPAIA(撮影・広尾晃)
7月31日までにNPB球団との契約締結に至らなかったため、藤川は8月の後期シーズンも高知で投げることになった。公式戦では6試合に登板し2勝1敗、33回を投げ、自責点3、防御率0.82。9月7日に高知で行われた香川オリーブガイナーズ戦では先発して香川を3安打完封し、健在ぶりをアピールした。
シーズン終了後の2015年11月、阪神タイガースは藤川の復帰を発表。以後、藤川は5シーズンで23セーブ61ホールドを挙げ、阪神の守護神としてチームに貢献。2020年オフに40歳で引退した。NPBでは243セーブ163ホールド。セーブとホールド数がともに150を超えたのは増井浩俊(2021年時点で163セーブ158ホールド)と藤川だけだ。
21年に及ぶ選手生活の中で、藤川にとっての独立リーグ時代は6月から9月のわずか100日足らずにすぎない。この期間の「充電」は、その後のキャリアに大きな意味があったと考えられる。高知のファンはいまだに「あの年、藤川が戻ってきてくれたことは忘れない」と話す。短く暑い夏だった。
ⒸSPAIA(撮影・広尾晃)
【関連記事】
・阪神の背番号22の歴史、名捕手から名クローザーまで球団史に残る猛虎戦士の系譜
・阪神の歴代クローザーの成績、スアレスの後任守護神は誰だ?
・阪神の参考になる?1992年の巨人が借金10の最下位から巻き返した要因