2021年はサンタナとオスナが活躍
2021年日本シリーズはヤクルトの20年ぶり日本一で幕を閉じたが、五番・サンタナが2本塁打、七番・オスナが安打を量産。右打ちの両外国人が日本一に貢献した。
ヤクルトには若き本塁打王・村上宗隆が誕生したが、これは異例のことで、過去は「左の強打者」に頼ってきた歴史がある。ヤクルト優勝時の助っ人外国人たちを振り返ってみる。
2021年日本シリーズはヤクルトの20年ぶり日本一で幕を閉じたが、五番・サンタナが2本塁打、七番・オスナが安打を量産。右打ちの両外国人が日本一に貢献した。
ヤクルトには若き本塁打王・村上宗隆が誕生したが、これは異例のことで、過去は「左の強打者」に頼ってきた歴史がある。ヤクルト優勝時の助っ人外国人たちを振り返ってみる。
1978年広岡達朗監督のもと、ヤクルトは球団創設29年目で初優勝の美酒に酔った。三番・若松勉、四番・大杉勝男のあとを打ったのがマニエルで打率.312、39本塁打、103打点。しかし、守備を重視する広岡監督はトレードで近鉄に放出する。
67年、阪急を球団創設32年目の優勝に導いた西本幸雄監督は近鉄に移籍して79年、球団創設30年目にしてリーグを初制覇する。その主軸がマニエルだった。79年にいきなり本塁打王でMVPに輝く。
現役引退後はアメリカで指導者の道を歩む。広岡「管理野球」と西本「人間野球」を融合させ、2008年にフィリーズをワールドシリーズ制覇に導いた。
野村克也監督はヤクルト9年間で4度のリーグ優勝、3度の日本一。ID野球はまさに熟成の時期だった。
92年、ハウエルが首位打者と本塁打王でMVP。本塁打王と打点王を同時獲得する選手は多いが、チャンスメーカーにもポイントゲッターにもなれる強打者だった。連覇した93年にはサヨナラ本塁打シーズン5本の記録もマークした。
94年ヤクルトは4位。しかも、そのハウエルと主砲・広沢克己がライバル・巨人に移籍する。そのピンチに現われたのが「外国人としては本塁打が少ない(15本)」という理由で阪神を解雇されたオマリーだった。
95年シーズン打率.302、31本塁打、87打点。日本シリーズでは「オマリーと小林宏の14球」の好対決を演じた。ペナントレース、日本シリーズともにMVPで、自分を放出した阪神に対して溜飲を下げた。
小さめのヘルメットを斜めにかぶったり、ガムをかんだりして、見た目は「不良外国人」だったが、ダグアウト内では率先して相手投手のクセ探しに躍起になるなど、野球に対して真摯な態度で臨んだ「不真面目な優等生」だった。
「タイガースファン、いちばんや~」と言っていたが、「スワローズファン、応援くださ~い」と言い換え、ファンにも気を配っていた。96年も97打点の好成績を残したものの退団した。
97年、巨人を退団した落合博満の獲得交渉に当たったが、不調に終わる。新外国人のホージーはオープン戦で不振を極め、チームの行く手に暗雲が漂ったが、シーズンが始まると別人のように快音を奏で、本塁打王を獲得して日本一に貢献する。ヘルメットに当時流行ったプリクラをせっせと貼り付け、「竿屋~、竿竹」と叫ぶ陽気な外国人であった。
若松勉監督時代のペタジーニは99年に来日していきなり本塁打王。新人でタイトルを総なめにした上原浩治(巨人)が敬遠を指示され悔し涙を流した強打者だ。2001年には本塁打王と打点王でMVPに輝いた。
01年当時30歳だったが、同い年のヤクルト関係者が「話がまったくかみ合わない。年上と話しているようだ」と語っていた。巨人、メジャーを経て2010年ソフトバンクに39歳で入団。ソフトバンク関係者が「外野守備からダグアウトに戻ってくるとゼイゼイ息を切らせている。39歳とはいえ、疲れすぎではないか」と両球団関係者とも、異口同音に年齢に疑問を呈していた。
ペタジーニは25歳上のオルガ夫人とラブラブで、熱い抱擁をよく見せつけられた。夫人は小学校時代の同級生の母親で、再婚。ペタジーニは純愛を貫いた。
ここまでは左の強打者。2011年から3年連続で本塁打王、13年には日本記録のシーズン60本塁打を樹立したのが右打者のバレンティン。15年のリーグ優勝時には故障のためわずか1本塁打で優勝に貢献できずじまいだった。
内角高めの速球は右肘をたたんで振り抜き、外角低めの速球はそのままライトスタンドにライナーで放り込む。態度をとやかく非難されたが、打者としてはさすが60本塁打の技術であった。
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