ドラ1入団から19年、引退試合は3球三振
ヤクルト・雄平が今季限りの引退を発表した。プロ19年目の今季は一度も一軍に上がることなく、イースタン・リーグで64試合に出場、打率.213、4本塁打、22打点の成績だった。
大勢のファンが詰めかけた9月30日のイースタン楽天戦(戸田)の8回に代打で登場し、同学年の楽天・牧田和久との対戦は3球三振。9回には右翼守備にも就き、試合後に胴上げされてプロ野球人生を締めくくった。
波乱万丈の野球人生だった。東北高時代は2年生だった2001年センバツに出場したが、初戦で後に巨人入りする野間口貴彦のいた関西創価(大阪)に1-8で完敗。結局、甲子園出場はこの一度だけだったが、150キロを超えるストレートを投げ「高校ナンバーワン左腕」と騒がれた。
2002年ドラフトでは自由獲得枠を使わなかったヤクルトと近鉄が競合し、ヤクルトが当たりくじを引き当てた。近鉄の外れ1位、神戸国際大付高の坂口智隆は後にチームメイトになる。
1年目の2003年6月にプロ初勝利を挙げると、27試合に登板して5勝6敗。高卒ルーキーとしては十分すぎる成績だった。その後も5年で計18勝をマーク。2007年には52試合に登板するなど中継ぎとして活躍した。
しかし、度重なるフォーム改造が逆効果だったのか制球難を解消できず、2009年に野手転向。東北高の2学年下だったダルビッシュ有(パドレス)が尊敬する「天才左腕」が、悩みに悩んだ末の一大決心だった。
プロ10年目に野手として一軍デビュー
2011年に本名の高井雄平から登録名を「雄平」に変更。二軍で実戦経験を積み、高校通算36本塁打の左打者が、野手として一軍初出場を果たしたのは2012年の開幕戦だった。プロ10年目、すでに27歳になっていた。
2014年には141試合に出場して打率.316、23本塁打、90打点をマーク。初の月間MVPや4番起用、オールスター出場、ベストナイン選出など大きく飛躍するシーズンとなった。
翌2015年10月2日の阪神戦(神宮)では、11回裏2死一、三塁で打席に立ち、能見篤史からリーグ優勝を決めるサヨナラ安打を記録。以降もチームに欠かせない主力の一人として活躍した。
通算の打撃成績は968試合で打率.291、881安打、66本塁打、386打点、41盗塁。投手としては144試合登板で18勝19敗1セーブ17ホールドを記録している。
「サヨナラヒットで優勝を決めた事が1番印象に残っています」
雄平は球団を通じて以下のコメントを発表した。
「ヤクルト球団には、高校を卒業して19年間という長い間お世話になり、プロ野球選手として素晴らしい経験をさせていただきました。ここまでやって来られたのは、これまで携わっていただいた、監督・コーチやチームメイト、球団関係の皆様、応援していただいた皆さんのお陰です。特にファンの皆さんの温かい応援は力となり励みにもなりました。そして、最後に家族に『ありがとう』を言いたいです。
思い返すと沢山の思い出が蘇りますが、中でも2015年、サヨナラヒットで優勝を決めた事が、1番印象に残っています。多くの方々に支えていただき、19年間のプロ野球生活を過ごすことができました。ありがとうございました」
勝負事に「タラレバ」は禁物だが、もし最初から野手に専念していたらどれほど凄い成績を残していただろうか。あるいは、もし野手転向していなかったらいつまで現役を続けられただろうか。類まれな野球センス、順応性、対応力、全てを持ち合わせていたからこその濃密な19年間だった。
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