入院前日に味覚、嗅覚の異常
待ち合わせ場所に現れた梨田氏はこんがり日焼けしていた。退院から2カ月半が過ぎていたとはいえ、とても病み上がりには見えない。聞いてみると、自宅マンションの屋上で日光浴をしているという。以前と変わらない柔和な笑顔を見て、ひとまず安心した。
梨田氏が入院したのは3月31日だった。25日の午後2時頃に倦怠感を感じたが、体温は36.8度。翌日以降も37度前後で、高熱にうなされるようなことはなかったため、コロナ感染を疑うことはなかった。
「当時は37度5分以上が4日続けばPCR検査を受けられたけど、そこまでいかなかったんで、やっぱり風邪だなと思いました。2009年の日本ハムの監督の時に、新型インフルエンザが流行って選手やコーチが感染したけど、僕はならなかった。それもあって、コロナにはならないという変な自信があったんです」
しかし、30日に体温は39度を超える。味覚や嗅覚の異常も感じた。
「女房に体温計が壊れたと言ってたんですけど、お酒もおいしくないし、食べても味がおかしいなと。その頃から記憶が多少飛んでるんです」
3月14日に京セラドーム大阪でオリックス―阪神戦を取材に訪れた際も検温し、マスクも着用していた。4日後の18日に仕事をしたのが最後。それ以外は人との接触を避けて細心の注意を払っていただけに、全く心当たりはない。
「どこで感染したのか分からない。退院してからいろいろな人に聞いたけど、誰も感染していないし」
いつの間にか、見えない敵は梨田氏の体内に侵入していた。31日には体を動かすこともできず救急搬送。検査の結果、陽性反応が出た。
悪夢ばかり見た集中治療室での2週間
入院してからの記憶はほとんどないという。ICUで治療を受けたものの予断を許さない状況が続いた。
「後で(生存確率は)1、2%だったと聞きました」
その頃は悪夢ばかり見た。同じマンションの住人にコロナをうつして家族が7人亡くなったと詰め寄られ、慰謝料を請求されたり、夢か現実か分からない幻覚のようだった。
「入院する時のことも覚えてないから自分がコロナかどうかも分かってないのに、誰かが自殺したとか、変な夢ばかり見た。意識が戻ってから、あの人は生きてる?とか聞いてました。ゆっくり休んでるという感じじゃなく、常に神経が起こされてる状態でしたね」
生死の境をさまよいながらも一命を取りとめ、ICUを出たのは2週間後の4月14日。しかし、それからがまた苦しい日々だった。
「新聞を読もうとしたら焦点が合わないし、新聞を持つのもしんどいんです。力が入らないからペットボトルのキャップも開けられない。スマホなんてめちゃくちゃ重い。本当に情けなかった」
一歩も動けない入院生活で、筋肉という筋肉が落ちていた。
「初めて立った時に、どっちから動くんやったかなと。片足を上げるのが怖くて。倒れるんじゃないかと思うと出せなかった」
体重は16キロ減。なんと歯茎まで痩せたと振り返る。
「舌触りで歯と歯茎に隙間ができてるのが分かる。電動歯ブラシで10日くらい磨いてたら肉が乗ってきた。最初は柔らかめのご飯を食べただけで、顎が筋肉痛になりました」
看護師たちも感染リスクがあるため、病室からすぐに出ていく。話し相手のいない梨田氏は、テレビ画面の中でアナウンサーがゲスト出演者に対して出した質問に、声を出して答えた。
「呼吸器を抜いた後は気道が狭くなってたのか、高い声しか出なくて。こんなんで解説でけへんなと思ったけど、しゃべる相手がいないしね。鏡を見たらざんばら髪で、顔は色白でやつれて。意識が戻ってからは社会復帰できるのか不安が大きかったですね」
懸命のリハビリを経て退院も「周囲の反応が怖かった」
リハビリを行い、少しずつ体の感覚を取り戻すよう努めた。最初はベッドに寝たまま膝を立てて腰を突き上げる運動を10回、次にベッドから立つ練習、壁に手をついてかかとを上げる練習など少しずつ強度を上げていく。
「リハビリで階段を上る時はしんどいけど、降りるときは怖いんです。バランスを崩して落ちるんじゃないかと」
それでも医師や看護師の優しい言葉や、掃除のおばちゃんとの何気ない会話に勇気をもらった。
「66歳でここまで復活したら凄いですとか褒められると、また頑張れる。選手もそうだろうけど、褒められたり、ちゃんと見てくれてると思うと頑張らなあかんと感じますよね」
PCR検査を8度受けて、ようやく2回連続で陰性が出た。併発していた心房細動も電気ショックとアブレーション治療によって治まった。様々な検査をクリアして5月20日に退院することになった。
「プロ野球の開幕が6月19日だったから、1カ月前に退院したいと思ってリハビリも頑張れた。やっぱり何か目標がないとね」
とはいえ、晴れ晴れしい気分ではなかったという。悪夢を見たこともあって、周囲の反応が怖かった。知らないうちに、うつしていないかという心配もあった。
「近所の人も、よかったですね、心配してましたと言ってくれて、嫌な顔はされませんでした。宅急便の人にも、よかったですねと言ってもらえたし」
心配が杞憂だったのは梨田氏の人柄もあるだろう。分け隔てなく、誰に対しても紳士的に接してきたからこそ、みんなが退院を喜んだ。
感染者への誹謗中傷に胸が痛む
退院後も手のしびれがあるというが、現在は自宅でストレッチや腕立て伏せ、腹筋、スクワットなどリハビリを兼ねて運動している。食事制限はなく、量は減ったが、お酒も口にしているという。
岩手県で初めてコロナ感染者が出た際、勤務する会社に誹謗中傷の電話やメールが殺到したというニュースが流れた。
「ああいうのを聞くと寂しい。僕は看護師や先生、掃除のおばさんも声をかけてくれたりして、元気をもらいました。人の悪口を言う人には幸せは来ない気がする。それは常に考えますね。心優しく接していかないと」
自らが感染したからこそ、感染者への誹謗中傷や偏見には胸が痛む。今のところは球場などに取材や解説で出向いていないが、現場復帰にも意欲をにじませる。
「梨田さんの解説を聞きたいという声も届いてるみたいだしね」
穏やかな語り口でお馴染みの解説は近いうちに聞けそうだ。
さらに、その先、4度目の監督就任はないのだろうか。近鉄、日本ハムをリーグ優勝に導き、監督通算805勝の経験と実績は申し分ない。8月に誕生日を迎えて67歳と高齢ではあるが、コロナに打ち克った体力と過酷なリハビリを乗り越えた精神力があれば、決して非現実的ではないはずだ。
さらに梨田氏がユニフォームを着ることで、感染者に対する差別や偏見を払拭することにもつながるかも知れない。
「どうだろう。できないことはない。要請があったら考えます」
12球団で唯一、日本一になれなかった近鉄で現役時代を過ごし、監督になってからもリーグ優勝はしたが、日本シリーズでは敗れた。梨田氏の日本一の胴上げを見たいと願うファンは多いだろう。
「西本さんが8回、僕が2回シリーズに出て、0勝10敗ですからね」
恩師・西本幸雄氏から受け継いだ夢は決して忘れていない。
《プロフィール》
梨田昌孝(なしだ・まさたか)1953年8月4日、島根県出身。浜田高3年時に春夏連続で甲子園出場。強肩強打の捕手として1971年ドラフト2位で近鉄に入団し、現役17年間で通算1323試合出場、打率.254、113本塁打、439打点。2000年から近鉄、2008年から日本ハム、2016年から楽天で計12年間監督を務め、通算805勝776敗31分け。
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