城西高で甲子園を目指した大武優斗さん
新型コロナウイルスの感染症法上の位置付けが5類に移行し、入場や応援が規制されていたスポーツシーンにも賑わいが戻ってきた。そんな中、コロナ禍で甲子園大会が中止になったため完全燃焼できなかった元高校球児が立ち上がり、「あの夏を取り戻せ」プロジェクトを進めている。
武蔵野大3年生の大武優斗さん(21)は2020年当時、東京・城西大学附属城西高で白球を追っていた。高校球児だった父親の影響で小学校1年から野球を始め、甲子園を夢見て厳しい練習に明け暮れた。
広島カープのリードオフマンとして通算477盗塁をマークした高橋慶彦氏を輩出した城西高に進学したのも、甲子園に出られる可能性があるからだった。
しかし、突如襲ったコロナ禍に幼い頃からの夢を奪われる。春のセンバツに続いて夏の甲子園も中止が発表されたのは、2020年5月20日だった。
「まさか、なくなるわけないだろうと思っていたので信じられませんでした。本当なのかというのが正直なところ。現実を受け入れられない感じでした」
翌21日、監督からメールが届いた。東京都高野連独自の代替大会開催が決まり、出場意思を確認する内容だったが、「甲子園のない大会に何の意味があるんだろうと思って、城西高校を背負って出ることはできないですと返信しました」と振り返る。
代替大会は全国各地の高野連が独自に開催したもので、全国大会にはつながらない。甲子園を夢見て、青春の全てを捧げてきた大武さんにとって、それでは意味がなかった。甲子園という果てしない夢を目指すことこそ、自身の思い描いていた高校生活だった。
目標を見失い練習にも身が入らず、背番号は2桁に
その後、部員同士で話し合い、代替大会に出場することになった。それでも大武さんの心のモヤモヤは晴れなかった。気持ちを切り替えて練習する仲間がいる一方、どうしても練習に身が入らない。
「大きな目標がなくなり、何を目指して野球をやるのという感じでした。今も後悔してます。最後までやり切ればよかったと思いますね」
あまりにも大きな夢を突如奪われた10代の少年に、気持ちを切り替えろと言う方が酷だろう。センターを守り、3番や5番を任されていた主軸打者が、代替大会ではベンチを温めることが増えた。1桁だった背番号は2桁になっていた。
「背番号は14か16だった気がします。それすらも覚えてないんです」
城西高は東東京大会4回戦で敗退。大武さんは最後まで練習に集中できず、霧の中をさまよい歩くような最後の夏はいつの間にか終わった。
武蔵野大進学後にプロジェクト立ち上げ
進路を決めるにあたり、この体験は大武さんの人生に大きな影響を与えた。
「(甲子園中止は)若者の声が届かなかったという感覚があったんです。若者でも社会に対して発言したり、声を聞いてくれたりするにはどうすればいいか考えました。社長になれば権力を持てて、それができるんじゃないかと思い、武蔵野大学のアントレプレナーシップ学部に1期生として入りました」
「起業家精神(アントレプレナーシップ)をもって、新たな価値を創造できる実践的な能力を身につけた人材を育成する」をポリシーに掲げる同学部に進学。大学1年の冬にインターンシップのプログラムを企業と一緒に作る会社を立ち上げたが挫折し、本当にやりたいことは何かと考え抜いた末に辿り着いたのが「あの夏を取り戻せ」プロジェクトだった。
「2年経っても当時のメンバーでご飯に行くと、どうしても甲子園の話になるんです。俺らの代はなかったよなといつも話していたので、だったら当時のメンバーを集めて甲子園で野球をやろうとプロジェクトを始めました」
とはいえ、簡単に実現できるはずもなく、甲子園球場に問い合わせてもけんもほろろだった。そこでマスコミ各社の力を借りようと、持ち前の行動力を発揮した。
「このプロジェクトへの信頼がなかったので、北海道から沖縄までの全メディアの電話番号を洗い出して電話をかけ、取り上げてくださいとお願いしました」
NHKのニュースウオッチ9で紹介されるなど徐々に認知度が高まるにつれ、SNS等を駆使して呼びかけた出場チームも増えていく。計画を進めた上で再度、甲子園球場に連絡すると、一般に貸し出すための抽選に申し込むことになり、11月29日に使用できることになった。
11月29日、甲子園に44チーム、約1000人集結
出場が決まっているのは、北は札幌第一高OBチームから南は八重山高OBチームまで44チーム。大武さんが戦った東東京からは帝京高OBチームが出場する。
「ツイッターやインスタグラムで呼び掛け、僕らの代の代替大会優勝校や勝ち残ったチームのみを集めて、2カ月で44チーム、1000名くらいの選手が集まりました」
通常、夏の甲子園は49代表だが、残り5チームはプロに進んだ選手がいるなどの事情から出場は未定。「そのチームの意見を優先したいので、ぼくたちは待っています。プロジェクトが社会的に意義のあるものになり、プロ野球選手も出場できるプロジェクトになればいいなと思います」と大武さんは話す。
11月29日に甲子園で行うセレモニーの内容は話し合っているところ。「試合をしてもいいし、全チームがグラウンドでノックをしてもいい。ただ、甲子園の外野の天然芝に1000人が集まると傷んでしまうので」と夢の聖地でできることを思案中だ。
翌日から2日間、11月30日と12月1日に兵庫県内の別の4球場に分かれて各チーム1試合ずつの交流戦を行う予定。当時のメンバーと当時のユニフォームを着れば、誰もが3年前に戻るだろう。
7000万円を目標にクラウドファンディング
これだけのビッグプロジェクトになると、運営費も莫大だ。6月7日から7000万円を目標にクラウドファンディングを開始する。
「球場使用料や選手の交通費、宿泊費などが必要になります。各県のOB会に当たったり、多くの方に応援していただいてます。半年くらいかけて7000万円を集めるつもりです」
大武さんがこのプロジェクトに情熱を注ぐ理由は2つある。「ひとつは、当時の選手が3年前の悔しさに終止符を打って新しいことに挑戦してほしい。もうひとつは、若者が挑戦するきっかけになってほしいですね」と笑顔を見せる。
完全燃焼できなかった青春時代に区切りをつけ、新たな道に挑むのは大武さん自身もそうだろう。「27歳くらいまでに事業をしながら大学の客員教授として学生に教えたい」と今後の青写真を描いている。
その理由を「今回のプロジェクトについて、僕が尊敬している方々に手伝ってもらったり、アドバイスをいただいたりしてますが、この恩をいつか返しますと言うと“俺らに返すんじゃなくて若者に返してくれ”と言われるんです」と打ち明けた。プロジェクト実現で得た経験や現在も学び続けている起業家精神は、惜しみなく後輩たちに教えていくつもりだ。
3年前、聞いてもらうことさえ叶わなかった「若者の声」は、今や全国に轟き、多くの大人を動かしている。11月29日、聖地に集う元球児たちは何を思うのか。心の中の霧は晴れ、真っ青な秋晴れの甲子園が待っている。
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