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滋賀県高校野球における近江の功績、甲子園の引き立て役から主役へ

2022 4/8 11:00糸井貢
イメージ画像,Ⓒ7maru/Shutterstock.com
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1979年に比叡山が全国で最も遅い県勢初勝利

103回の歴史を誇る全国高校野球選手権で、初勝利までに最も長い時間を要した都道府県はどこか。唐突なクイズ出題をご容赦いただきたい。東北や山陰の雪深い地域を想像する向きが多いかもしれない。

答えは滋賀県。今春の選抜大会に代替出場し、準優勝に輝いた近江の活躍を思えば、意外に感じる人は相当数いるはずだ。

湖国にメモリアル勝利をもたらしたのは、比叡山だった。1979年(昭54)8月8日の1回戦。釧路工との一戦は、5回まで3点をリードされる劣勢を強いられていた。その前年、選抜に出場した比叡山は、前橋の松本稔に大会史上初の完全試合を許す屈辱。選手権では、膳所が同じく群馬県代表の桐生に0―18の大敗を喫していた。

また、今年も…。ベンチに漂う嫌な空気を6回の猛攻が断ち切った。集中打で一挙5得点。初白星を願う県民の思いが続く7回の4得点を後押しした。12―4の快勝劇で手にした悲願。一つの壁を打ち破り、一気にベスト8まで駆け上がる健闘を見せた。

京津大会で「平安の壁」

選手権で1県1校制が導入されたのが前述の膳所が出場した第60回大会。それまでの滋賀県勢は甲子園で勝つ前に、聖地の土を踏むことが一つの目標になっていた。

第1回大会(1915年)から京都府勢と甲子園出場の1枠をかけて「京津大会」で激突。決勝で負けるか、決勝にさえ進めない時も多かった。初出場は八日市が西舞鶴を下した1953年(昭28)。その後は、全国屈指の強豪に成長した平安(現龍谷大平安)の壁に苦しみ、再び夢舞台が遠ざかった。

1974年(昭49)からの4年間は福井県勢との「福滋大会」になっても未出場。滋賀県勢が代表を勝ち取ったのは、大会初参加から数えてわずか4度(記念大会を除く)では、未勝利県のレッテルをなかなかはがせないのも無理はなかった。

最近10年間は甲子園で勝ち越し

比叡山が県勢に与えた「自信」は、急速なレベルアップを促した。翌1980年には、瀬田工がベスト4の快挙。1982年に再び比叡山が8強入りした3年後、創部3年目の甲西が逆転に次ぐ逆転のミラクルで、準決勝まで勝ち進んだ。

その後、しばらく低迷が続いたものの、近江の躍進が滋賀県高校野球の風景を一気に変えた。2001年の選手権で、県勢として初めての決勝進出。昨夏も4強に入り、今春選抜の準優勝と、全国レベルの強豪校に成長した。県勢の甲子園戦績を10年ごとに見ると、成長の足跡が明確に見えてくる。

滋賀県勢の甲子園成績


県下のボーイズが強化され、選手の底上げが進んだことや、他府県から有力選手が流入するなど、県勢が力をつけた要因を一つに絞るのは難しい。

ただ、群雄割拠の時代が終わり、戦力でも、実績でも、近江が頭ひとつ抜けた存在になったことの「波及効果」は計り知れない。躍進はライバル校に刺激を与え、大きな目標に追いつき追い越せのモチベーションが成長につながる。

近年、甲子園でも白星を挙げた滋賀学園や彦根東は、近江ブルーのユニホームを倒すために研鑽してきた。大阪桐蔭という高校野球界の「盟主」打倒を誓い、近畿の有力校が全国をリードするようになった図式によく似ている。

「この結果はチームにとって本当に大きな経験になると思う。夏は(エースで4番の)山田を周りがもっとカバーできるチームとなって(甲子園に)帰ってこないと」

大阪桐蔭に1―18と敗れた選抜決勝戦(3月31日)の後、近江・多賀章仁監督は強い決意を言葉にこめた。全国の球児が憧れる大優勝旗を初めて湖国にもたらすのは近江か、それとも…。夢が叶う瞬間は、そう遠い未来ではない。

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