前年の世界陸上優勝で高まった金メダルへの期待
オリンピックの男子マラソンで日本人最後のメダリストとなっているのが、1992年バルセロナ大会で銀メダルを獲得した森下広一だ。だが、同大会で結果的に森下以上に話題となったのが、8位に入賞した谷口浩美だった。
日本体育大学で箱根駅伝優勝に貢献し、旭化成に入社後の1985年、別府大分毎日マラソンで初マラソン初優勝。1987年には東京国際マラソンとロンドンマラソンを連勝し、1988年の北京国際マラソンでは当時世界歴代7位の2時間7分40秒をマークするなど国内トップランナーとして活躍した。
さらに1989年の東京国際マラソン、北海道マラソン、1990年のロッテルダムマラソンと3連勝。1991年の世界陸上東京大会では2時間14分57秒で優勝し、マラソン通算成績を14戦7勝に伸ばした。
翌年にはバルセロナオリンピックが控えている。いやが上にもメダルへの期待が高まった。
足を踏まれて転倒し、脱げた靴を履き直す
森下広一、中山竹通とともに出場した1992年8月9日。真夏のバルセロナはスタート時の気温が31度まで上がっていた。
スタートから先頭集団で走っていたが、20キロ過ぎにアクシデントに見舞われる。給水地点で外国人選手に足を踏まれ、転倒したのだ。
靴が脱げたため慌てて起き上がって履き直し、再び走り始めたが、先頭集団からは遅れた。約30秒のロスとはいえ、精神的なダメージはそれ以上だっただろう。
辛くて長い残りの20キロを谷口は諦めることなく走り続けた。順位を少しずつ上げるもののメダル圏内には届きそうにない。
優勝を争っていた森下も40キロ地点手前のモンジュイックの丘の下り坂で黄永祚(韓国)に引き離されて2位。中山はトラックでシュテファン・フライガング(ドイツ)に抜かれて4位でゴールした。
谷口は追走及ばず8位。3選手とも入賞を果たしたが、谷口の転倒は、衛星中継を見ていた日本のファンの脳裏に痛恨のシーンとして刻まれた。
レース後「こけちゃいました」
しかし、谷口がさわやかで朴訥な人柄で男を上げたのはレース後のインタビューだった。
「こけちゃいました」
足を踏んだ選手へ苦言を呈することも、メダルを逃した悔しさを口にすることもなく笑顔で振り返る姿に、好印象を抱かない日本人はいなかっただろう。
谷口はこの時32歳になっていたが、その後も現役生活を続行。1996年のアトランタオリンピックに出場したものの2時間17分26秒で19位に終わり、翌1997年の東京国際マラソンを最後に現役を引退した。
もし、あの時、転倒していなかったら…。勝負事にタラレバは禁物だが、そんなことを考えずにはいられない真夏のバルセロナの記憶。谷口の笑顔に救われるような思いになった日本国民は多かったはずだ。
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