室伏広治が陸上界に轟かせた衝撃
陸上男子ハンマー投げで、室伏は長期に渡って活躍してきた。日本選手権では、初優勝を飾った1995年から2014年まで20連覇という金字塔を打ち立てている。
世界の舞台では、1998年のアジア大会を大会新記録で制したのを皮切りに、2001年にはグッドウィルゲームズで日本人初となる優勝、2002年はアジア選手権とアジア大会を共に大会新記録で優勝、IAAFグランプリファイナルで日本人初の優勝、そして2004年にはアテネオリンピックの金メダルを獲得した。外国人に有利な投擲種目において、日本人史上初の快挙だった。
それ以降もワールドアスレチックファイナルやIAAFハンマースローチャレンジで優勝、2011年には国際大会最後のタイトルとなった世界陸上選手権の優勝がある。これは世界選手権における男子史上最年長の優勝としても記録されている。
世間が室伏広治を知るまで ~生い立ち、陸上との出会い~
1974年、静岡県生まれの室伏は「アジアの鉄人」と呼ばれた室伏重信氏を父に、やり投げのルーマニア代表だったセラフィナ・モーリツさんを母に持つ。そのため本名に「アレクサンダー」というミドルネームがついている。
幼い頃からテニスや水泳、少林寺拳法など色々なスポーツを経験、5年ほどを過ごしたロサンゼルスでもテニスやゴルフを経験した。
日本に帰国後は愛知県に居住、保見中学校に転入し複数の部活動を掛け持ちしていたが、最終的には陸上部1本に絞り、砲丸投げ、走り幅跳び、400m走の三種競技に取り組んだ。
ハンマー投げを始めたのは千葉県の成田高校に進学してから。瞬く間に高校新記録を樹立して、陸上界に衝撃を与える。インターハイは1991年と92年に2連覇を達成した。
世間が「室伏広治」を知るまで ~大学、社会人そして世界へ~
室伏は1993年に中京大学へ進学、オリンピックにも出場した溝口和洋氏と、実父の室伏重信氏から指導を受けて成長する。インカレでは4連覇を達成し日本学生新記録を樹立、1994年広島アジア大会への切符を手にする。その大会で準優勝したことで、全国の陸上界に室伏の名が知れ渡った。
そして迎えた1995年の日本選手権。中京大3年の室伏が初優勝を飾り、後の日本選手権20連覇をスタートさせたのだ。
1997年、スポーツメーカーのミズノに入社。この年の世界陸上は10位という成績だったが、その後も記録を伸ばし、翌年の群馬カーニバルで、父である室伏重信氏の持つ日本記録を更新するという偉業を果たした。更にこの年開催されたバンコクアジア大会で優勝、初の国外タイトルを獲得して「世界の室伏」の土台を築いていった。
驚異の身体能力を物語るエピソード1
室伏の特徴は、その類まれなる身体能力。それにまつわる、まるで都市伝説のような逸話も多数ある。まずは「NHKラジオ深夜便」に出演したときの父・室伏重信氏のコメントから。
「生後4、5か月で物干しざおにつかまらせてみたら、小さな手なのにぶら下がって懸垂みたいなことをしたりしてね。それから、寝転がっている広治の足を押さえて『広ちゃん』と呼ぶと、腹筋を使ってぐっと上体を起こしました」
出典:室伏重信 ハンマー投げの頂点を目指して 聞き手松本一路 ラジオ深夜便'12/8 no.145 NHKサービスセンター
どちらも生後半年に満たない赤ちゃんができる芸当ではない。
高校時代には、やり投げはほぼ未経験で出場した国体でまさかの2位に入賞し、当時やり投げの選手だったタレントの照英さんは、この事実を知って競技から身を引いたそうだ。
驚異の身体能力を物語るエピソード2
次は実際にテレビで放映された、室伏の身体能力を物語る出来事を紹介する。
- 室伏の握力は推定で120kgw以上といわれており、100kgwまで計測できる握力計を使ったら針が振り切ってしまった。
- スポーツマンNo.1を決定するテレビ番組にて、各界のアスリート達を押しのけ総合優勝してしまった。中でも100mを10秒台で走る室伏は短距離種目で圧巻の優勝。専門家に「30m走ならウサイン・ボルト選手よりも速い」と言わしめるほど。
- 2005年のプロ野球で行った始球式で、初心者のようなフォームから投げられたボールは131km/hを計測。
これほど逸話の絶えない選手は他にいるだろうか?
「ハンマー投げで日本人は世界に通用しない」と長らく言われ続けてきた常識を打ち破った室伏。禁止薬物の横行が目立つハンマー投げの世界で、最後までドーピングとは無縁の競技人生を送った事実も室伏が称えられる一因となっている。