高橋尚子選手とは
高橋尚子選手といえば、Qちゃんの愛称でおなじみの女子マラソン選手だ。2000年に開催されたシドニーオリンピックで金メダルを獲得した歴史がある。そんな高橋選手は、1972年5月6日に岐阜県岐阜市で生まれた。中学から陸上をはじめ高校時代の県大会では1位という輝かしい歴史があるが、インターハイにおいては大敗を味わってしまう。大学時代でも一定の活躍をするものの、優勝をすることがなく悔しいを思いをしたそうだ。
Ⓒゲッティイメージズ
高橋尚子選手は、今でも陸上界で意欲的に活動しており知らない人はいないと思う。今回は改めて、高橋選手にスポットを当ててみたいと思う。
高橋尚子選手といえば、Qちゃんの愛称でおなじみの女子マラソン選手だ。2000年に開催されたシドニーオリンピックで金メダルを獲得した歴史がある。そんな高橋選手は、1972年5月6日に岐阜県岐阜市で生まれた。中学から陸上をはじめ高校時代の県大会では1位という輝かしい歴史があるが、インターハイにおいては大敗を味わってしまう。大学時代でも一定の活躍をするものの、優勝をすることがなく悔しいを思いをしたそうだ。
大学卒業後は、生涯の恩師である小出監督に見初められ契約社員としてリクルートに入社した。小出監督は高橋選手を第二の有森と紹介していたものの、初マラソンである1997年の大阪国際女子マラソンでは7位という残念な結果になってしまう。その後、小出監督が積水化学へ移籍すると同時に、高橋選手も積水化学へと移籍した。その後は、小出監督とともに力を磨いていき、見事シドニーオリンピックの代表を勝ち取ることになった。
オリンピック前に、3500mものの高山トレーニングを敢行し、一部メディアから危険なのではといわれたものの、小出監督とともにトレーニングをやり切った。
そして、いよいよシドニーオリンピック本番。高橋選手は中盤手前で早々にスパートをかけ、周囲を揺さぶる。当時ライバルとされていた、リディア・シモン選手との争いのさなか、サングラスを投げ捨ててさらにスパートをかけた姿は、皆さん記憶にあると思う。途中シモン選手に背中を追われつつも最後まで逃げ切って日本女子マラソン史上初の優勝を勝ち取った。その時のゴールタイムは2時間23分14秒であり、当時のオリンピック最高記録を樹立した。
シドニーオリンピック後にその功績をたたえられ、国民栄誉賞を受賞している。その後の2001年に開催されたベルリンマラソンでは、女子初となる2時間20分を切りさらに世界記録を更新し続ける。続けて各世界マラソンにおいて優勝を勝ち進めていくが、怪我に悩まれていき、2004年のオリンピックには出場がかなわなかった。
2008年の北京オリンピックも狙ったが、怪我の影響やスランプにより、選考会では自己ワーストの2時間44分台の記録となり出場を果たすことができず、2009年の名古屋国際女子マラソンで現役を退いた。
引退後の現在は日本陸上競技連盟の理事である傍ら、キャスターや解説、様々なマラソン大会にジョガーとして出場して、マラソン界を盛り上げている。また、世界のマラソン発展を支える意欲もあり、靴を買うことさえままならない発展途上国の子どもたちに日本の子どもたちのサイズが合わなくなったシューズを送るプロジェクトの代表として活動している。ちなみに、シューズを贈った子どもたちへは、発展途上国の子どもたちからお返しにヒマワリの種が贈られる。
今回は高橋尚子選手について紹介した。日本人女子で始めてのオリンピック金メダル獲得と世界記録の樹立は、非常に歴史的なことだ。現在でもマラソン界の発展に向けて意欲的に活動しており、各地のマラソン大会で顔を見ることができる。