「スポーツ × AI × データ解析でスポーツの観方を変える」

陸上のオリンピック日本人女子メダリストを紹介

2020 6/20 11:00SPAIA編集部
アトランタオリンピック女子マラソンで銅メダルを獲得した有森裕子
このエントリーをはてなブックマークに追加

Ⓒゲッティイメージズ

陸上女子オリンピック全メダリスト紹介

陸上日本女子は、これまでオリンピックにおいて数々の功績と記録を残している。陸上女子の全メダリストは以下の一覧の通りである。

【1928年 アムステルダム大会】
人見 絹枝  800m 銀

【1992年 バルセロナ大会】
有森 裕子  マラソン 銀

【1996年 アトランタ大会】
有森 裕子  マラソン 銅

【2000年 シドニー大会】
高橋 尚子  マラソン 金

【2004年 アテネ大会】
野口 みずき マラソン 金

次項目からは、それぞれのメダリストについて紹介する。

日本人女性初のオリンピックメダリスト「人見絹枝」

人見絹枝は、1907年に岡山で生まれた。もともと運動神経がよく活発だった人見は、岡山県立高等女学校へ進学。4年生の時、第2回岡山県女子体育大会に出場したのをきっかけに陸上選手としての才能が発揮されていく。走り幅跳びで4m67という当時の日本女子最高記録(非公認)を出し、優勝する。

1924年、体育教師を育成する1年制の二階堂体育塾(現在の日本女子体育大学)に入塾。この年の秋、第3回岡山県女子体育大会に出場し、三段跳びで10m33という当時の世界記録(非公認)を出し、優勝。その名は大きく報道され、日本国中に名を知らしめることとなった。

1926年、大阪毎日新聞社に入社。運動課で原稿取りの手伝いをしながら練習を続ける。スウェーデンのイエーテボリで行われた第2回国際女子競技大会に日本からただ一人初参加。走り幅跳びで世界新記録を出し優勝、立ち幅跳びでも優勝、100ヤード走で3位、円盤投げで2位という好成績を残す。

1928年のアムステルダムオリンピックに日本選手団初の女性として参加。100m、800m、円盤投、走高跳と4つの種目に出場した。自伝では、100mが得意種目で金メダルを狙っていたが、結果は惜しくも準決勝で4位、決勝を逃す。このままでは終われない、と未経験の800m出場を決意し、銀メダルを獲得した。

帰国後は、自らも競技を続けながら新聞社の仕事をこなし、講演会や後進のための活動を続けた。だが、その過労もたたってか、1931年、オリンピック銀メダルを獲得してからちょうど3年がたった8月2日、24歳の若さでこの世を去った。

日本人女子プロランナーの草分け「有森裕子」

有森裕子は、1966年に岡山で生まれた。高校時代から陸上を始め、陸上部顧問からの推薦で日本体育大学へ進学。生まれたときに股関節脱臼だったこともあり、大学時代には怪我に悩まされた時期もあったが、全日本大学女子駅伝で区間賞を獲得するなど、徐々に才能が開花していく。

マラソン初レースは1990年の大阪国際女子マラソンで6位入賞。翌年の同大会では2時間28分1秒(当時の日本最高記録)で2位を獲得、世界陸上で4位入賞と世間の注目が集まるようになり、1992年バルセロナオリンピックの出場切符を手にする。

バルセロナオリンピックでは、レース終盤の35Km過ぎに先頭を走っていたロシアのワレンティナ・エゴロワ選手に追いつき、急な登り坂が続くモンジュイックの丘において約6キロに及ぶ激闘を繰り広げた。だが、競技場へ入る直前でエゴロワ選手に引き離され、惜しくも8秒差の2位でゴール。五輪優勝はならなかったが、銀メダルを獲得した。

続くアトランタオリンピックでも銅メダル獲得を果たし、日本女子陸上選手初の2大会連続のオリンピックメダルを獲得。ゴール後のインタビューで語られた「自分で自分を褒めたい」という言葉は、その年の流行語にもなった。

国民的なランナーとなった有森選手はプロ宣言し、プロランナーの草分け的存在となった。2007年にプロマラソンランナーを引退後は、NPO法人やアスリートのマネジメント会社設立のほか、スポーツ振興に積極的に取り組み、2010年には国際オリンピック委員会(IOC)女性スポーツ賞を日本人女性として初めて受賞。現在も活躍を続けている。

日本初の女子マラソン金メダリスト「高橋尚子」

高橋尚子は1972年に岐阜で生まれた。中学生時代から陸上競技をはじめ、高校時代にはインターハイや全国都道府県対抗女子駅伝にも出場している。大阪学院大学に進学してから、陸上選手としての才能が花開いていく。関西インカレでは800m、1500m、3000mで何度も優勝を飾ったほか、日本インカレでも表彰台に上がるなど、学生トップクラスの選手に成長した。

当時リクルートランニングクラブ監督であった小出義雄氏に見出され、1995年にリクルートに入社。1997年大阪国際女子マラソンを初舞台とし、その年の世界陸上アテネ大会女子5000mにも出場。その後、名古屋国際女子マラソン、IAAFグランプリ大阪大会、バンコクアジア大会において連続優勝を果たし、世間の大きな注目を集めることとなる。そして、2000年の名古屋国際女子マラソンで2時間22分19秒の大会新記録で優勝し、シドニーオリンピックへの出場切符を手にする。

シドニーオリンピックでは18km付近でスパートをかけて先頭集団を抜け出し、35km手前でサングラスを外して沿道に投げると同時にラストスパート。スタジアムのトラックでルーマニアのリディア・シモン選手の追い上げを受けたが、そのまま逃げ切り、2時間23分14秒のオリンピック最高記録(当時)で優勝。オリンピックでの金メダル獲得は、日本女子陸上界初だった。

その後も活躍は続き、2001年のベルリンマラソンでは2時間19分46秒の世界最高記録(当時)で優勝。翌年のベルリンマラソンでも優勝を果たした。その後、アテネオリンピック、北京オリンピックを目指すも出場を逃し、2008年に現役を引退した。

現在は、スポーツキャスターやマラソン解説のほか、パラスポーツ推進ネットワーク理事長や「高橋尚子のスマイルアフリカプロジェクト」、環境活動など幅広く活躍している。

日本女子マラソンに2大会連続の金メダルもたらした「野口みずき」

野口みずきは1978年に神奈川県で生まれた。その後、三重県で育った野口は、中学生で陸上をはじめる。高校生の頃には3000mでインターハイに出場、駅伝でも活躍を見せるようになる。

1999年、犬山ハーフマラソンで優勝したことをきっかけに、ハーフマラソンを中心に取り組み、実績を重ねていく。2000年札幌国際ハーフマラソンでは高橋尚子と競り合いを演じたが、結果は3位。その後、高橋尚子がシドニーオリンピックで金メダルを獲得したことで、自らも同じようにオリンピックで金メダルを獲りたいと考えるようになっていく。それが、2002年のフルマラソン挑戦へとつながった。

初のフルマラソンとなった2002年の名古屋国際女子マラソンで初優勝。2回目のレースとなった2003年の大阪国際女子マラソンでも優勝。その年の世界選手権パリ大会で銀メダルを獲得し、アテネオリンピック代表の切符を手にした。

アテネオリンピックでは、気温30度を超える猛暑の中での過酷なレースとなった。25km付近でスパートをかけた野口は優勝候補を次々と突き放し、独走態勢に。一旦遅れていたケニアのキャサリン・ヌデレバ選手が猛追するも、これをかわし12秒差で逃げ切って優勝。高橋尚子に続き、日本に2大会連続の金メダルをもたらした。

2005年のベルリンマラソンでは2時間19分12秒の大会新記録で優勝。2007年東京国際女子マラソンでも大会新記録で優勝を果たし、北京オリンピックの代表入りを決める。しかし、怪我との戦いに苦しみ、2008年の北京オリンピック女子マラソン本番5日前に出場辞退を表明し、自身の2大会連続金メダルという夢は潰えた。

その後も怪我に悩まされ続けるも、2013年名古屋ウィメンズマラソンで3位、同年の世界陸上モスクワ大会への出場を決める。ロンドンオリンピック、リオデジャネイロオリンピックへの代表入りも目指すも出場を逃し、2016年現役を引退した。現在は、メディアやイベント等で活躍するほか、実業団チームの岩谷産業でアドバイザーとして選手を指導している。

マラソンでの活躍が目立つ陸上女子だが、トラック競技でも要注目の選手が出てきている。人見絹枝以来となるマラソン以外でのメダル獲得も、そう遠くないかもしれない。

《関連記事》
オリンピックの陸上日本男子で大きな功績を残した織田幹雄と室伏広治 他にはどんなメダリストがいる?
「世界最強の陸上選手」室伏広治が残した功績
マラソンのケニア、エチオピア勢が強い理由はヘモグロビン量と長い脚

おすすめの記事