「もう一緒に野球が出来ないんだ」
「いつもより疲れを感じるのが早いな…」
試合中盤、マウンドでそう感じていたという。
2016年7月16日、熊谷公園球場。第98回全国高等学校野球選手権埼玉大会3回戦。八潮南対正智深谷の試合は、2対2のまま延長15回を戦っても決着がつかず、翌日再試合となった。
先のコメントは、翌日も連投で投げることとなった八潮南のエース・宇田川優希(現仙台大)のものである。前日の試合で211球を投げた彼の右肩は、7回を迎えた時点でかなり上がりにくい状態になっていたという。
「体全体、特に背筋に疲れが出てて、前日の試合が終わってから東京にある『ベースボールクリニック』で電気や酸素カプセルを使ったケアをしてもらいました。肘の痛みや腰の痛みは全くなかったので、再試合の最初の方はいつも通りに投げられていたんですが、7回くらいから途端に右肩が上がりにくい状態になって…」
8回表、八潮南はそんな宇田川のスリーランホームランが飛び出して7対2。リードを一気に5点に広げた。
「そのときは正直『勝った』と思いましたね」
しかし、その裏、宇田川は、味方のエラーも重なって、自身でも信じられない失点を、相手チームに献上することとなる。
スコアボードに灯った数字は「9」。スコアも7対11となり、まさかの逆転負けとなった。
「終わった直後は何がなんだか分からなくて涙は出なかったですね。だけど、周りのみんなの様子を見ていたら、『もう一緒に野球が出来ないんだ』って想いが込み上げてきて…。負けたことよりも『この仲間達ともう一緒に野球が出来ないんだ』って思うことの方が辛くて、急に寂しくなりました」
自宅から自転車通学で毎朝1時間かけて朝練に通ったこと、齋藤監督の指導で自身の野球観が大きく変わっていったこと、部活終わりに仲間とたわいない話をしながら家路に向かったこと。その全てが走馬灯のように蘇った。
翌朝、起きて何気なしにつけたテレビで、その年の優勝校になる花咲徳栄が、入間向陽高と試合をしているのをぼんやりと確認した。しかし、そのままテレビを見る気にはなれず、すぐさまそこを離れた。
後に仙台大学で152キロ右腕として、スカウト、マスコミからも注目される宇田川優希の高校野球は、全身にかつて感じたことがない疲労だけを残して、ひっそりと終わりを告げた。
部員35人の中、ただ一人野球の道へ
八潮南高の齋藤繁監督は「でも、だって、どうせ、無理、できない」を部員達に使わせない熱血漢の指導者だった。練習試合も有名校と積極的に組んで「自分達でも充分に戦える」という意識改革を部員達に教え込んでいった。
宇田川の運命を大きく変えたのも、高校3年の春に行われた帝京高との練習試合だった。当時、最速で142キロに達していた宇田川のストレートは、すぐさま相手コーチの目に留まった。
「帝京高にいたコーチが、『八潮南に良いピッチャーがいるよ』と、森本(吉謙)監督に伝えてくれたんです。その後の別の練習試合で、森本監督が直接見に来てくれまして、そのときに正式に誘われた形です」(宇田川)
35人部員がいた中で、大学野球または社会人野球に進んだのは宇田川ただ一人だった。
夏の埼玉大会が終わり、しばらく自宅で静養していると齋藤監督から連絡が入った。
「このまま家でぐーたらしていたって、何も変わらないぞ。身体が回復したらグラウンドに出て来て、ちゃんと練習に出て来いよ」
その言葉がなにか救いのように感じた。
「『監督の言う通りだな』と、そのときに思って練習に出かけました。グラウンドに行っても、自分の同級生はもういない。しばらくは気持ちもあまり入らなかったんですけど、でも監督が『せっかく大学で野球やらせてもらえるんだから』『入りが大事だぞ』と言ってくれて。そこからは残り半年間しっかり練習をやって、大学野球に挑もうと思ったんです」
「これが大学野球のレベルなのか」
翌春、仙台大学に進学すると、集まった投手のレベルの高さにまず驚かされた。4年生には現阪神の馬場皐輔、宇田川と一学年上の2年生にも福岡ソフトバンクに入団した大関友久、今春から社会人野球に進む稲毛田渉(NTT東日本)、小林快(七十七銀行)といった才能あふれる投手達が揃っており「これが大学野球のレベルなのか」と、圧倒された。
そこからは一日でも早く彼らに追い付こうと、それぞれの良いところを観察しながら日々研鑽を重ねた。
「高校のときは自分が背番号1をつけてエースだったので、周りに(技術的な)アドバイスを訊ける人がいなかったんです。それが大学に来て、先輩やコーチに色々と訊けるようになって。そこが高校とは違いました」
技術面で特に参考にした人物がいる。馬場皐輔だ。
「馬場さんのフォームは凄く理想的で『自分もこういうフォームで投げたいな』と、いつも思って見ていました。体の使い方は真似というよりも、ポイントだけを意識して。練習でそれを試しながら投げた感じです」
馬場の投球フォームからヒントを得た宇田川は、部内でも徐々に頭角を現していく。2年春にはリリーフで8試合に登板し、チームの戦力として数えられると、ストレートの球速もぐんぐんと上がり140キロ台後半を計測するまでに至った。
「軸足(右足)の動きを少し変えたんです。それとグラブを付けている左手の使い方ですね。それまでは全く意識していなくてグラブの位置も低かったんですけど、それを肩くらいのラインまで上げるようにして、左肩と右肩を入れ替えるようにして投げたら球も速くなった感じです」
今や宇田川の‶代名詞″になっているフォークボールも、馬場との出会いがきっかけだった。
「最初は先輩の岩佐政也さん(現JR東日本東北)に教えてもらったんですけど、それが自分には合わなくて、近くで見ていた馬場さんに『自分はこうだよ』と教えてもらったんです。それが自分にはハマった感じがしました」
高校時代は投げていなかったフォークボールを持ち球に加えると投球の幅はさらに広がった。3年春には先発を任せられるようになり、春のリーグ戦で初の規定投球回入り。防御率も0.64を記録し、仙台六大学野球の投手成績で2位にランクインした。
しかし、初めてローテーションを守り、リーグ戦を投げ切ったことで、これまでは生じることがなかった箇所に疲労が溜まるようにもなっていた。
「自分は真上から投げ下ろすように投げているんですけど、そこで左股関節に負担がかかっていたんです。それは少し前から分かっていたことだったんですけど、投げて行く内にどんどん痛みが激しくなっていって、最後は痛みで投げられなくなった感じです」
その夏は3週間のノースロー期間を設けるなど回復に努めた。以後の対策も再発を防ぐよう体幹部をより強化。
「足と膝をつけてキープする運動と、右手と左足をつけて、右足と左足を伸ばしてゆっくりつける運動。あとサイドが一番大事になるので、そういう動きを繰り返しやるようにしました」というようになんとか秋のリーグ戦に間に合わせた。
結果は7試合26回1/3を投げて、防御率2.39。春に比べ、秋は万全とまでいかなかったが、なんとか形を作った。
「プロ野球選手になりたい」
昨年は6月と、12月に渡って大学JAPAN選考合宿にも参加した。宇田川にとって野球人生初となる代表合宿。その中でこれまで味わったことがない経験もたくさん積んだ。
「一回目の合宿は、自分も行くのが初めてだったので『選ばれたいな』とは思っていたんですけど、周りを見ても凄い人達ばかりで、『実際、無理かな』って気持ちも多少ありながらの参加でした。でも、2回目(昨冬)は自分が最上級の学年になったこともあって、下の学年にも良いピッチャーはたくさんいたんですけど、単純に『負けたくないな』って気持ちの方が強く芽生えていて…。結果はダメ(落選)でしたけど、気持ちの面ではだいぶ違うなと感じたのはありました」
そんな中、貴重な出会いもあった。苫小牧駒大の伊藤大海だ。
「春の合宿では、大海(ひろみ)さんから色々とアドバイスをもらいました。お尻を体ごと行くんじゃなくて、キャッチャーにお尻だけ見せるようにしてそのまま体重移動したらいいよとか技術的なことです。それを帰ってから、実際に試してみようと思ったんですけど、夏の合宿が終ってからすぐに怪我をしてしまったので。この冬はその課題にも取り組んでいます」
順調に行けば、今秋のプロ野球ドラフト会議ではともに上位指名が期待される二人。2020年は各所で両者が顔を合わせる機会も増えて行くことだろう。その最初の舞台は6月の神宮か。宇田川は馳せる想いをこう言葉にする。
「今年は春も秋も神宮に出て、そこで自分らしいピッチングをしたいです。そうすることで自分をもっともっとアピールしたい気持ちはあります」
4年前、まさかの逆転負けを食らった高校生活最後の夏。八潮南・齋藤監督に言われた言葉を宇田川は今も忘れていない。
「大学野球がどういう感じか分からなくて、最初は進学も迷っていたんですけど、夏大(夏の大会)が終ったときに、齋藤監督から『この悔しさを忘れずに、お前は大学に行きなさい。そうすればきっとプロになれるから』って言ってもらったんです。終わり方はああいう形でしたけど、そこで初めて『プロ野球選手になりたい』って強い気持ちが芽生えました」
故郷を離れ杜の都に夢を追い求めた。宇田川優希、勝負の一年がまもなく幕を開ける。
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