スキー・ジャンプで26年ぶりの「日の丸飛行隊」
1998年の長野冬季五輪で地元開催の日本選手団は金5、銀1、銅4のメダル10個と当時の過去最高成績を収めた。その中でも感動のドラマとして今も語り継がれるのは、日本列島が歓喜に沸いたスキー・ジャンプ団体の金メダルだろう。
1972年札幌五輪は70メートル級(現ノーマルヒル=NH)ジャンプで笠谷幸生が日本勢初の金メダルに輝き、金野昭次が銀、青地清二が銅と表彰台を独占し「日の丸飛行隊」として歴史に名を刻んだ。それ以来となる26年ぶりの栄光は、ラージヒルでエース船木和喜が美しい飛型と力強さを加えたジャンプで優勝してから始まった。
日本は団体戦でも岡部孝信、斎藤浩哉、原田雅彦、船木という最強のオーダー。しかし1回目は悪天候も影響し、原田が79.5メートルとまさかの大失敗ジャンプで歓声が悲鳴に変わった。トップのオーストリアと13.6点差の4位。メダルは絶望かと思われた。
4年前の1994年リレハンメル五輪でも原田は金メダル目前のジャンプ団体で失速し、ドイツに逆転負けを喫した。当時の悪夢を思い出したファンも多かっただろう。
歴史は繰り返されるのか―。それでも涙のドラマはここからだった。2回目、1番手の岡部が驚異的な137メートルのジャンプ台記録で首位を奪い返してカバーし、斎藤が124メートルで続いた。
そして3番手は原田。日本中のファンが固唾をのむ中、起死回生となる137メートルの大ジャンプを飛び、1回目の失速を帳消しに。これを船木が美しいジャンプで125メートルを飛んで守りきり、日本は奇跡の大逆転に成功した。
降りしきる雪の中、抱き合って泣きじゃくり、悲願の勝利に喜ぶ4人。原田は泣きながら「金メダルは家宝にして神棚に飾ります」と振り返り、船木は「みんなで輪になって取った金メダル。最高の五輪でした」との言葉を残した。
これが日本の五輪史上、夏、冬合わせて100個目の記念すべき金メダルでもあった。4人は晴れて26年ぶりとなる栄光の「日の丸飛行隊」になった。
栄光を支えたテストジャンパー西方仁也の存在
この激動のドラマには、陰で支えた25人のテストジャンパーたちもいた。映画『ヒノマルソウル~舞台裏の英雄たち~』でも、その知られざるジャンパーたちの感動秘話が描かれている。
競技は1回目を終え、悪天候のため中止になる可能性もあった。協議の結果、テストジャンパーによるジャンプを見て競技を続行するか否かを判断することになった。全員が五輪を目指して練習してきた日本のトップジャンパー。そしてこの中に4年前のリレハンメル大会の銀メダリスト、西方仁也もいたのだ。
吹雪の中、西方はK点超えの123mを飛んだ。協議続行を決める歴史をつくったもう一つの価値あるジャンプだった。
ロケットスタートの清水宏保が史上初の金
スピードスケート男子500メートルでは「小さな巨人」と呼ばれた当時23歳の世界記録保持者、清水宏保がスケート史上初の金メダルに輝いた。
「ロケットスタート」と呼ばれた抜群の加速を武器に、1回目は35秒76の五輪新記録でトップに立ち、2回目も驚異的なダッシュで100メートルを最速の9秒54で通過。連日の五輪新となる35秒59で駆け抜け、合計タイム1分11秒35で名実ともに世界の頂点に立った。
ワールドカップ(W杯)の500メートルで日本勢最多の通算34勝をマークするなど数々の栄光を手にしてきた男の魂を込めた圧巻のスピードだった。「僕は世界一小さいスケーター。小さくても勝てるということを証明したかった」との名言も残している。
里谷多英はシンデレラガールに
フリースタイルスキー・女子モーグルでは当時21歳の里谷多英が大番狂わせを演じ、金メダルを獲得した。荒々しいコブの急斜面を軽快に滑って攻略し、エア(空中技)も華やかに舞った。冬季五輪で日本女子初の快挙で、まさに「シンデレラガール」となった。
ショートトラック・スピードスケートの500メートルでは当時19歳の西谷岳文が優勝。日本のショートトラック史上初めての大金星だった。
長野五輪の開会式は善光寺の鐘の音で始まり、大相撲の横綱曙が土俵入りを披露。フィギュアスケート女子の五輪銀メダリスト、伊藤みどりさんが聖火台に点火した。雪と氷の上で選手たちが繰り広げた16日間の熱い戦いは涙あり、笑顔ありの夢物語で幕を閉じた。
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