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パラリンピックの起源は負傷兵のアーチェリー大会

2020 3/7 11:00田村崇仁
女子走り幅跳びの中西麻耶Ⓒゲッティイメージズ
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Ⓒゲッティイメージズ

ユダヤ人の医師が提案、16人の傷痍軍人が参加

「もう一つのオリンピック」と呼ばれる障害者スポーツ最大の国際総合大会、パラリンピックはなぜ始まったのだろうか―。

その起源は1948年7月29日、ロンドンの北西50キロにあるストーク・マンデビル病院にある。ナチスによる迫害で英国に亡命したユダヤ人医師のルートビヒ・グトマン氏が発案し、男女16人の傷痍軍人が車いすのアーチェリー大会に参加した。スポーツを治療に取り入れ、戦渦が広がった第2次世界大戦で心身とも傷ついた負傷兵たちに生きる希望を与え、社会復帰のために開かれた大会でもあった。

ストーク・マンデビル病院に負傷兵を受け入れる脊髄損傷科を新設し、後に「パラリンピックの父」と呼ばれたグトマン医師が残した有名な言葉がある。「失ったものを数えるな。残されたものを最大限に生かせ」―。原点の大会が開催されたのは1948年ロンドン五輪開会式と同じ日。そのレガシー(遺産)は今も継承されている。

「日本パラリンピックの父」は中村裕医師

このアーチェリー大会が発展し、第1回大会と位置付けられるパラリンピックは1960年にローマで開催された。8競技に23カ国から約400人が参加。当時は「国際ストーク・マンデビル大会」と呼ばれていた。

次の1964年東京大会に尽力した立役者は「日本パラリンピックの父」と称される故中村裕医師だ。留学先の英国で障害者スポーツと出合い、グトマン医師に師事。車いす使用者だけではなく、すべての障害者が参加できる大会を理想に掲げ、2部制として1部は脊髄損傷者の大会(パラリンピック)、2部で全ての障害者を対象にした国内大会を開いた。これが現在のパラリンピックの土台にもなっている。

「パラリンピック」の名称は日本で発想

そもそも「パラリンピック」という名称は、国際ストーク・マンデビル大会の「パラプレジア」(下半身まひ者)とオリンピックを合わせて発想した造語で、東京大会の際に日本で名付けられた愛称であった。今は「パラレル(もう一つの)」五輪とも解釈されている。

大会を選手の活躍に焦点を当て、ビジネス面でも発展させたのは国際パラリンピック委員会(IPC)のフィリップ・クレーブン前会長(英国)。2012年ロンドン大会は高い運動能力で競い合う障害者の姿が共感を呼び、史上最多270万枚のチケットを完売した。「スーパーヒューマン(超人)に会いに行こう」と呼び掛けたマーケティング戦略も成功し、史上最高と位置付けられる大会となった。

東京大会は22競技、4000人参加

テコンドーとバドミントンが新たに採用された東京パラリンピックは22競技が実施され、8月25日から9月6日まで行われる。過去最多規模の170カ国前後から4000人超が参加の見通しだ。日本では1964年夏季が東京、1998年冬季が長野で実施され、東京は2度目の夏季パラリンピックを開く初の都市となる。

もともとパラスポーツとは身体、視覚、知的などの障害がある選手が取り組むために考案されたスポーツ。現在は健常者のレベルを超えるような選手も現れるなど、進化する道具とともに競技力は日進月歩で向上している。

視覚障害者の柔道や車いすテニスなどは既存のスポーツのルールを変更して実施。激しいぶつかり合いが許される車いすラグビーは観客の度肝を抜くような迫力がある。陸上や水泳、アーチェリーのほか、アイマスクをしてプレーするゴールボール、重度障害者用に開発されたボッチャなど独自の競技も人気が高い。