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体操競技、日本男子の5つの名場面とは

2016 10/11 18:34
体操 競技
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Photo by Paolo Bona/Shutterstock.com

上級者初心者問わず、全てのスポーツには忘れられない場面があります。苦しみ抜いて勝った試合や、コテンパンにやられて負けた試合など、忘れられない場面は様々。ここでは体操競技男子における名場面を日本人選手を中心に紹介したいと思います。

僅差での敗戦、1960年ローマ・小野喬

1952年ヘルシンキ、1956年メルボルン、1960年ローマ、1964年東京と4大会連続でオリンピックに出場した小野喬は、メルボルン団体総合銀メダル、ローマ団体総合金メダル、東京団体総合金メダルと日本チームのメダル獲得に貢献しました。個人成績も素晴らしく、ヘルシンキの跳馬で銅メダル、メルボルンでは、鉄棒で金メダル、あん馬銀メダル、平行棒銅メダルと大活躍。
しかし、個人総合はソビエトのビクトル・チュカリンに次ぐ銀メダルと金メダルには後一歩届きません。満を持して臨んだローマでは、日本チームの団体優勝に貢献、個人総合への期待が膨らみました。
しかしまたしても結果は銀メダル。今回はソビエトのボリス・シャハリンに敗れました。得点差は0.05、僅差での銀メダルでした。

オリンピック日本人個人総合初優勝、1964年東京・遠藤幸雄

1956年メルボルンオリンピックで団体総合銀メダルと、世界の舞台に登場した日本男子体操は、1960年ローマで団体総合金メダルに輝きます。
しかし個人総合で期待された小野喬は、両大会ともソビエト勢に阻まれ銀メダルに終わりました。迎えた東京オリンピック個人総合決勝では、エースに成長した遠藤幸雄が着実に得点を伸ばし、最後の種目のあん馬で9.00以上を出せば金メダルが確定する(当時の採点は10.00が最高点)状況でした。
しかし、遠藤は最後のあん馬でつまずきます。重圧からかいつもの演技ができず、ソビエト勢の追い上げでもうだめかと思われました。しかし審判団の協議の結果9.10が与えられ、薄氷の個人総合優勝を飾りました。

28年ぶり団体優勝金メダルへ、2004年アテネ・冨田洋之

1960年ローマから1976年モントリオールまで団体総合5連覇を成し遂げて、世界に君臨した体操日本でしたが、1984年ロサンゼルスから3大会連続銅メダルの後は1996年アトランタ、2000年シドニーとメダルもとれない期間が続きました。その間中国が台頭、世界はおろかアジアナンバーワンの座までも明け渡してしまいます。
そんな状況下で迎えたアテネオリンピックはアメリカ、ルーマニアとの熾烈な戦いとなり、金メダルの行方は最終演技の鉄棒の成績に掛ってきました。鉄棒の日本勢の演技は素晴らしく、最終試技者の冨田の演技に全てが掛ります。落ち着いた演技で離れ技コールマンを決めた冨田は、伸身の新月面宙返りで着地、金メダルを決定的にしました。

団体戦金メダル奪回、2016年リオ・日本男子

2004年アテネで28年ぶりの金メダルに輝いた日本男子でしたが、2008年北京、2012年と2大会連続の銀メダルで、同じアジアの新進国中国にその座を空け渡します。
そして迎えた2016年リオオリンピック団体予選ではまさかの4位と出遅れての決勝進出でした。決勝では日本はあん馬から、スタートします。あん馬、つり輪と終わった時点で日本は5位と精彩がありません。つり輪、平行棒と4種目終わった時点で1位ロシア、2位日本と相手はロシアに絞られてきました。
そして鉄棒では加藤凌平、内村航平、田中佑典が15点以上を連発、この時点でロシアを抜いて首位に立ちます。そして最終演目のゆかでも白井健三、加藤、内村と得意の演技でロシアを突き放し、3大会ぶりに金メダルを奪回しました。

個人総合2連覇、2016年リオ・内村航平

世界選手権6連覇中の内村航平が、オリンピック2連覇を掛けて臨んだリオオリンピック個人総合決勝で、思わぬ苦戦を強いられました。
最後まで内村を苦しめたのはルーマニアのオレグ・ベルニャエフ選手です。同じ組でローテーションをした内村とベルニャエフは最終演技の鉄棒を残して、ベルニャエフ1位、内村2位で得点差は0.901でした。鉄棒は内村が予選で落下した種目。絶対絶命かと思われる展開でしたが、内村は15.800の高得点をたたき出し、ベルニャエフの演技を待ちます。14.900以上を取ればベルニャエフの優勝でしたが、車輪の演技や着地にも失敗して結局14.800に終わり、内村が個人総合優勝を果たしました。

まとめ

いかがでしたか。 1952年ヘルシンキから2016年リオまで、男子体操競技の戦いの名場面の数々を振り返りました。 悔しい思いや嬉しい結果の連続だったと思われます。 男子体操が世界といかに戦ってきたかの一端でも分かっていただければ、応援にも熱が入るのではないでしょうか。