圧倒的な学生時代、日本学生ゴルフ選手権競技4連覇
2017年女子プロゴルファー宮里藍選手が年内限りで引退を表明した。ファンならずとも衝撃を受けたが、引退を機に2020年東京オリンピックの女子ゴルフコーチに推す声がある。中でも熱心なのが、五輪ゴルフ競技対策本部強化委員長でもある、日本プロゴルフ協会倉本昌弘会長だ。協会運営の傍らシニアツアーにも参戦する倉本会長は、プロゴルファーとしても数々の功績を残してきた。
倉本昌弘選手は1955年生まれ、広島県出身のプロゴルファーだ。10歳の頃よりクラブを握り、アマチュア時代から全国規模で活躍を見せ、数々の日本タイトルを獲得した。中でも日本大学ゴルフ部時代に達成した日本学生ゴルフ選手権競技4連覇は、誰も抜くことができないどころか、並ぶことさえもできていない。日本アマチュアゴルフ選手権競技でも2勝を挙げ、向かうところ敵なしの強さだったのだ。
1980年には3回目の日本アマチュアのタイトルを獲得するとともに、プロゴルフツアーの中四国オープンゴルフ選手権競技で優勝を飾り、日本中をあっと言わせた。1981年にはプロテストに合格、7月からプロゴルファーとしてスタートを切る。
プロ2年目全英オープンで4位に入る快挙
プロデビューの翌月8月には日本国土計画サマーズでツアー初優勝を遂げ、9月に中国オープンゴルフ選手権競技と全日空オープン、10月には東海クラシックで優勝と初年度ツアー4勝を挙げる。賞金ランキングでも青木功選手に次ぐ2位に着けた。
プロ2年目となった1982年は全英オープンに出場、ここでも素晴らしい活躍を見せる。
ロイヤルトルーンゴルフクラブ・オールドコースで開催されたこの大会には、日本からは青木功選手、中村通選手と倉本選手が出場、3人とも決勝に進む。青木選手、中村選手は波のあるスコアでトータル+5の20位タイで大会を終えたが、倉本選手は終始安定したスコアで-2をマーク、首位トム・ワトソン選手と2打差の4位タイと大健闘だった。この順位は全英オープン日本人ベストとして、2016年まで破られていない。2017年はどうなっているか注目したい。
1982年は国内のメジャーでも活躍を見せた。全英オープンの直後に行われた日本プロゴルフ選手権で初出場初優勝を成し遂げ、プロ転向からわずか1年あまりで男子プロゴルファーの頂点を極めたのだ。3日目、4日目が雨の中、4日間とも60台をマークしてトータル-14、2位に4打差をつけての堂々たる優勝だった。この年は中国オープンにも優勝して年間2勝を挙げるものの、賞金ランキングでは6位に終わってしまった。
男子プロ5人目となる永久シード権獲得
1983年2勝、1984年2勝と着実に毎年優勝を重ね、1988年には年間5勝を挙げる。この年は6月初旬に行われた仙台放送クラシックで優勝すると、6月に2勝、7月に1勝、8月に1勝、9月に1勝を挙げ、賞金王も視野に入る勢いだった。しかし、高額賞金が並ぶ秋の陣では調子が上がらず、優勝がないまま下位に低迷、賞金ランキングも4位止まりでシーズンを終えた。
翌1989年は初戦ポカリスエットオープンで予選落ちを喫すと、シーズンを通じて調子が上がらず、日本プロゴルフ選手権65位、日本オープンでは予選落ちに終わり、プロ転向後初めての年間未勝利に終わってしまう。賞金ランキングも27位まで後退してしまった。
1990年はシーズン初戦の第一不動産カップを6位タイで通過すると、出場3戦目のテーラーメイド瀬戸内オープンでは1年半ぶりの優勝を挙げて、周囲を安心させた。賞金ランキングでも11位まで順位を戻し、復活を印象付けた。そして1991年1勝を挙げ、迎えた1992年には日本プロゴルフ選手権で2回目の優勝を飾ると、10月に行われたブリヂストンオープンでも優勝、プロ通算25勝を達成して、男子プロ5人目となる永久シード権を手に入れた。
夢のスコア59とアメリカツアーへの挑戦
倉本選手はレギュラーツアーで30勝を挙げている。最後の優勝は、2003年9月に行われたアコムインターナショナルだった。この時すでに48歳になっていたが、初日59ストロークという夢の記録を達成する。10番からスタートして18番までを5バーディでまとめると、1番から9番までを7バーディで回り通算-12の59ストロークで日本ツアー新記録を打ち立てた。
そして2006年からは、アメリカのシニアツアー、PGAチャンピオンズ・ツアーに参戦する。実は、アメリカツアーへの挑戦は初めてではない。永久シードを確定させた1992年にアメリカツアーのクォリファイング(Qスクール)を受験、トップ合格を果たし、1993年はアメリカツアーに参戦した。しかし、これといった成績も残せないまま1年で撤退している。
レギュラーツアーとシニアツアーの違いはあるが、満を持してのアメリカツアーへの再挑戦だった。アメリカでは2008年までの3シーズンを戦い、最高成績は2006年のウォルマート・ファーストティーオープンの4位だった。2009年からは、日本のレギュラーツアーとシニアツアーを主戦場に戦っている。
日本プロゴルフ協会会長
2010年はレギュラーツアー転戦の傍ら、シニアツアーにも9試合に出場した。そしてシーズン後半に行われた、日本シニアオープンゴルフ選手権競技とHANDACUPシニアマスターズ2試合に優勝を飾り、賞金総額も4千8百万円強を獲得、見事賞金王に輝いた。
レギュラーツアーでは30勝を挙げているが、賞金王の経験は1度もない。レギュラーツアーで果たせなかった賞金王の座をシニアツアーで果たした格好になった。そして2014年にも2度目の賞金王を獲得、シニアツアーを主戦場に競技生活を続けている。
倉本選手のもう一つの顔、日本プロゴルフ協会会長には2014年に就任した。男子プロゴルフには、日本ゴルフツアー機構があるが、こちらはツアートーナメントの主催が主な業務で、日本プロゴルフ協会はティーチングプロの資格認定やプロテストを行いプロゴルファーの資格認定を行っている。
その他にもシニアツアーの主催や、日本プロゴルフ選手権の主催に加え、ジュニア育成や社会貢献活動も積極的に行っている。女子プロゴルフに水をあけられた感のある男子プロゴルフを立て直すことができるのか、今後の活躍に期待したい。