女子プロゴルファー1期生
樋口久子(ひぐちひさこ)氏は、日本女子プロゴルフ協会相談役として精力的に活動している。女子プロゴルフ界とのかかわりは長く、女子プロゴルファー1期生として競技生活を送った後は、指導者として日本のゴルフ業界発展に尽力してきた。日本女子ゴルフの歴史は樋口久子氏の歴史だといっても過言ではないのだ。
樋口氏とゴルフの出会いは、姉が務めていた東急砧ゴルフ場だった。当時トッププロだった中村寅吉氏と知り合い、弟子入りを果たす。中村氏は男子プロゴルファーとして活躍する傍ら、女子プロゴルフの基礎作りにも積極的に参画、日本女子プロゴルフ協会誕生に尽力した。
そして、1967年、女子プロゴルフ協会が設立され、初代会長には中村氏が就任、樋口氏は、女子プロ試験を受けプロ第1期生として登録する。プロ1期生といっても、当時はまだ試合のない時代で、1970年でも5〜6試合程度のものだった。シーズンの始まりも夏過ぎからだ。樋口氏は日本では試合のない春先をアメリカの女子ゴルフツアーに参戦してきた。
海外での活躍と全米女子プロゴルフ選手権優勝
1970年より続けていたアメリカ女子ツアーへの遠征が、樋口氏を強くしてくれたことは間違いない。1973年には全米女子プロゴルフ選手権で、最終日の最終組で回れるほどになっていた。この時は優勝できなかったものの、可能性は感じさせてくれた。
翌1974年にはオーストラリア女子オープンで海外初優勝を現実のものとし、1976年にはコルゲートヨーロッパ女子オープンで優勝してアメリカ女子ツアーに足跡を残した。快挙はこれだけにとどまらず、1977年の全米女子プロゴルフ選手権では、日本人として初めてアメリカ女子プロゴルフツアーのメジャー大会を制する。
樋口氏は最終日のスタート前、一つの誓いを立てていた。それは会場のスコアボードを見ないというものだ。この試合の前の試合でも最終日の最終組で回っていたのだが、その時は優勝を意識して自滅した苦い経験があったからだ。そのかいあってか、平常心のプレーが続き、終盤まで何事もなくたどり着く。終盤、ふとしたことからリーダーボードを見てしまうが、何とかそのままプレーを終わり優勝を手にすることができた。
日本では向かうところ敵なし
この頃の樋口氏は日本では向かうところ敵なしで、日本女子オープンゴルフ選手権には4連勝、日本女子プロゴルフ選手権には7連勝、賞金女王は9年連続といった具合だった。年度別勝率もすさまじく、1968年と1969年が2試合中2試合に優勝、1970年は5試合中3試合、1971年は5試合中4試合に優勝している。
1973年の第6回日本女子プロゴルフ選手権は、そんな樋口氏の強さを象徴するような試合になった。6回目となるこの大会のコースは、4年連続で貞宝CCが使用されていた。コース設定は6574ヤード、パー74だ。
日本女子プロゴルフ選手権5連勝中の樋口氏だったが、この大会でのアンダーパーはなかった。他の選手がスコアを伸ばせない中、初日-4、2日目-2で回り、ただ一人アンダーパーのゴルフを展開する。最終日は雨でコンデションが悪い中、+2でまとめ、トータル-4で、6連勝を達成した。
2位以下の選手は、最終日さらにスコアを崩し、2位の山崎小夜子選手は+6だった。この、10打差は日本女子プロゴルフ選手権最多差優勝として、記録に残っている。この年、樋口氏は7勝を挙げ、年間獲得賞金額も1千万円を越えた。この年の試合数は14試合だった。
他の追随を許さない日本記録の数々
結局樋口氏は、日本LPGAツアーで69勝、海外で3勝を挙げた。1973年には年間7勝、1974年には年間8勝を挙げるなど、圧倒的な強さを誇ったシーズンもたくさんあった。しかしもっとすごいのは、出産でツアーを全休する1988年までの20年間毎年最低でも1勝を挙げていることだ。そしてツアーに復帰した2年目の1990年には2勝を挙げ、ツアー復帰を果たした。
また、樋口氏は連続9回賞金女王に輝いている。1977年に大迫たつ子選手に10連続で阻まれるが、すぐに復帰、2年間賞金女王を続け、計11回の賞金女王になった。12回目の賞金女王を阻まれたのは、10連覇を阻まれたのと同じ、大迫選手選手だった。その大迫選手は1980年日本女子プロゴルフ選手権で初優勝を飾る。この大会11位となった樋口氏は、勝つべき人が勝ったと、惜しみない賛辞を送った。
そして、1996年日本プロゴルフ協会会長に就任。翌1997年、30年に及ぶ現役生活から引退した。日本LPGAツアー69勝、日本女子プロゴルフ選手権7連勝、日本女子オープン4連勝、9連続賞金女王、日本女子プロゴルフ選手権9勝、日本女子オープン8勝は全て樋口氏の持つ記録だ。
世界ゴルフ殿堂入り
樋口氏は、1996年日本女子プロゴルフ協会会長に就任して、2011年の定年まで会長を務めた。必ずしも平坦な会長時代だったわけではない。当面の問題として、スポンサーのトーナメント離れや、トーナメント部門とインストラクター部門の軋轢問題などがあったが、一つ一つ乗り越えている。ジュニアゴルファーの育成や、トーナメントの賞金総額増額にも力を注いだ。
そんな選手時代の実績が認められて、2003年生涯業績部門でアジア人として初めて世界ゴルフ殿堂入りを果たした。この殿堂入りを記念して、2004年樋口久子ゴルフ殿堂入り記念IDC大塚家具レディスが開催された。この大会は樋口久子・紀文クラシックの後継大会で、樋口氏の冠大会として1997年にスタート。現在では、樋口久子三菱電機レディスゴルフトーナメントとして継続している。
また、2010年に設立された日本プロゴルフ殿堂にも2013年プレーヤー部門で顕彰されている。2011年の定年後は日本女子プロゴル協会相談役に就任、まだまだ日本の女子ゴルフ界をリードする立場で活躍している。2014年にはゴルフ界からは初めてとなる文化功労者に選ばれた。