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勢いが止まらない!日本女子プロゴルフ発展の歴史と功労者たち

2017 8/17 16:20hiiragi
ゴルフ ai
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Photo by Rnoid / Shutterstock, Inc.

日本女子プロゴルフ協会設立に尽力、プロゴルファー中村寅吉氏

2017年に創立50周年を迎える日本女子プロゴルフ界の勢いが止まらない。2017年シーズンのトーナメントはLPGAツアーが38試合、ステップ・アップ・ツアーは3試合増えて21試合、レジェンズツアーも1試合増の5試合が予定されている。これで5年連続で試合数は増加し、日本LPGAツアー賞金総額も37億1500万円と、こちらも最高額を更新中だ。50年前、今の姿を想像できた人が何人いただろう。
総本山、日本女子プロゴルフ協会は1967年、日本プロゴルフ協会内に女子部として設立された。日本プロゴルフ協会が女子プロの試験を実施したのだ。応募者は26名で全員合格、女子プロゴルフ協会1期生としてスタートを切る。
日本女子プロゴルフ協会として独立したのは1974年だ。初代会長には中村寅吉氏が就任した。中村氏は男子プロゴルファーとして、カナダカップの団体戦と個人戦に優勝、日本にゴルフブームを作った功労者だが、女子プロゴルフ界にっとても功労者の一人だ。まだ女子プロゴルファーが生まれる前の1961年には全日本ゴルフ場女子従業員競技会の開催に尽力すなどして、積極的に女性プロゴルファーの誕生をバックアップしている。

全米プロで優勝、世界中をアッと言わせた絶対的女王樋口久子選手

女子プロゴルファーが誕生した1967年に行われた大会は1試合だ。女子部創設記念として開催された大会は1.5ラウンド行われたが、優勝者小川美智惠選手の平均ストロークは81.33だった。
1968年になると、日本女子プロゴルフ選手権とTBS女子オープン(日本女子オープンの前身)が開催された。この年行われた試合は2試合のみだ。7月に行われた日本女子プロゴルフ選手権は、プロテスト合格者の26名が参加して、1日1.5ラウンドを2日間の計3ラウンド、54ホールストロークプレーで争われた。
優勝は樋口久子選手だった。樋口選手は12月に行われたTBS女子オープンでも優勝して2冠に輝く。この年の樋口選手の賞金獲得額は35万円、2試合の優勝賞金を合わせての金額だ。樋口選手はその後、日本女子プロゴルフ選手権には7連勝、日本女子オープンには4連勝して第一人者として活躍する。1977年には全米女子プロゴルフ選手権で優勝して、世界中をアッと言わせた。
その後も勝ち星を重ね、通算勝ち星72勝、賞金女王11回と活躍する。1997年には日本女子プロゴルフ協会会長に就任、2003年世界ゴルフ殿堂入り、2013年日本プロゴルフ殿堂入りを果たしている。

樋口選手に待ったをかけた新女王大迫たつ子選手

1968年、1969年と年2大会しかなかった試合数も1970年代になると急激に増加する。1970年6試合、1972年7試合から1973年には14試合に倍増すると、1976年には20試合を越えるまでになった。
試合数増加につれて賞金額も増えていく。1968年?1976年の9年間は樋口久子選手が賞金女王を独占するが、35万円から始まった獲得賞金額は1970年に100万円を突破すると、1973年には1000万円を突破して1262万7千円とこちらもうなぎ上りに増えていった。賞金総額は1968年が97万円、1970年が512万4千円、1973年が7927万3096円だった。
1977年、樋口選手の9年連続賞金女王にストップが掛かる。新しい女王は大迫たつ子選手だった。この年は樋口選手が全米プロゴルフ選手権に優勝した年で、国内での出場試合が少なかったせいもあった。1978,79年と国内に専念して賞金女王に返り咲いたことでも分かるが、1980年再びストップをかけたのも大迫選手だ。大迫選手は1971年入会の8期生で、公式戦8勝、賞金女王3回、通算勝利45勝の永久シード選手だ。2015年プロゴルフ殿堂入り、278試合連続予選通過の記録保持者でもある。

異次元のゴルフを展開、USLPGAでも賞金王になった岡本綾子選手

大迫選手の時代が続くかに思われた1981年、賞金女王に輝いたのは岡本綾子選手だった。岡本選手は1975年5月の入会で、この年10試合に出場して賞金ランキング14位に着ける大型新人だった。
1979年日本女子プロゴルフ選手権では大迫選手と異次元の戦いを見せてくれる。3日間大会として開催されたこの大会で、初日-4の首位タイでスタートすると、2日目はお互いに-9と爆発して-13とスコアを伸ばし最終日を迎える。2日目の前半9ホールの大迫選手のスコアは-7という驚異的なものだった。最終日-4とスコアを伸ばした岡本選手に対して大迫選手は-2と2打差をもって岡本選手に軍配が上がった。岡本選手の最終成績-17は、54ホールの世界最小スコアで、世界新記録として称えられた。3位は樋口選手の-4だったので、二人のスコアがどれほどすごかったかが分かる。
岡本選手はその後アメリカツアーに本格参戦、アメリカ通算17勝、1987年にはアメリカツアーの賞金女王にもなっている。国内では44勝を挙げ永久シード権を獲得、、欧州ツアーの1勝を加えると計62勝、2005年には世界ゴルフ殿堂入り、2014年には日本プロゴルフ殿堂入りを果たした。

バルブ崩壊後に現れた女子ゴルフ界の救世主、宮里藍選手

バブル期まで順調に推移した試合数も、バブル崩壊を境として1992年の39試合を最後に減少方向に向かい、2003年には30試合まで落ち込む。賞金総額も1992年の20億3500万円+65万ドルから2003年が17億6000万円+113万ドルだった。
そこに登場したのが宮里藍選手だ。2003年9月に行われたミヤギテレビ杯ダンロップ女子オープンゴルフトーナメントに高校3年生のアマチュアとして出場、優勝してしまう。この30年振りの快挙は日本中の注目を集めた。この優勝で向う1年間の出場権を得ると10月にはプロ宣言をして、史上初めての高校生プロゴルファーとなる。
さらに、2005年に行われたワールドカップ女子ゴルフでは、北田瑠衣選手とペアを組んで優勝、日本中が大いに盛り上がった。新しいヒロインの誕生で女子ゴルフの人気は急上昇、テレビのトーナメント中継の視聴率も上がった。宮里選手は2006年からアメリカツアーに専念する。国内でプレーを見る機会は少なくなったが、高校生プロの誕生は女子ゴルフ界の人気を不動のものにした。そして若い世代に希望を与え、女子ゴルフのすそ野を広げたのは確かだった。宮里選手に続けと、若い世代の活躍も目立つ。

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