ドライバー出身国から読み解くF1、30年の変化
今年の5月1日、日本では元号が平成から令和になり、新しい時代の幕開けとなった。平成が始まった1989年から令和元年となる2019年の30年で物事が大きく変化したが、F1も同じである。マシン、開催地、様々な変化があったF1だが、ドライバーの出身国もこの30年で変化があった。平成元年と令和元年のドライバー出身国は以下の通り。
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現在のF1の参加台数は20台だが、1989年は多くのコンストラクターが参加していたこともあり参加台数は39台もあった。台数が多かったため、上位26台と残りの13台で行われる予備予選の上位4台、合わせて30台が決勝レースを戦った。
参加人数に違いがあるものの、当時はイタリア、フランス、イギリスとモータースポーツの本場ヨーロッパ出身のドライバーが圧倒的に多かった。しかし現在のF1ではヨーロッパ出身のドライバーの割合が少なくなってきている。14人も参戦していたイタリア人は現在わずか1人、9名が参戦していたフランスもたったの2人だ。
フランス人ドライバーが減った理由
なぜ今まで多くのF1ドライバーを輩出してきた国から有能なドライバーが出てこなくなったのか。それは国内のレース環境の変化が原因と思われる。今回はフランスをテーマに説明したい。
長いF1の歴史の中でチャンピオンを獲得したフランス人はアラン・プロストただひとりである。F1で4度のワールドチャンピオン、51勝という金字塔を打ち立てたF1界のレジェンドであるプロスト以外、フランス人でチャンピオンを獲得した者はいない。しかし、フランス人は長くF1で活躍した。特に1980年代は何人ものドライバーが優勝を収めている。
この頃のフランスではカート人口も多く、有名なドライビングスクールからフォーミュラにステップアップし、好成績を収めたドライバーが大企業のサポートを得てF1に参戦するという流れがあった。
しかし90年代に入ると、F1を席巻したフランスのルノーが撤退、フランスの石油会社であるelfの資金が無くなり、タバコ広告禁止の影響でフランスの国営タバコ専売公社であるSEITAのスポンサードも無くなるなど、フランス国内のモータースポーツは衰退の一途を辿ったのである。
だが、近年F1にフランス人ドライバーが帰ってきた。今年はロマン・グロージャンとピエール・ガスリー、そしてモナコ出身だがフランスのレース環境で育ったシャルル・ルクレールが活躍している。また、今年は参戦することができなかったが、2018年にはエスティバン・オコンが印象的なパフォーマンスを見せていた。
最近またフランス人ドライバーが活躍できるようになってきたのは、やはりサポートする環境が整ってきたからだろう。フランスのモータースポーツを統括するFFSAが国内のモータースポーツを活性化させ、ドライバーのマネージメントも将来有望な子供達に先行投資を行うことで実力を開花させている。一時は大企業の支援も無くなり、国内のモータースポーツ環境も弱体化したフランスだが、光る原石を見つけ磨く取り組みが実を結んだ。
このように、ヨーロッパでもモータースポーツに取り組みにくい時代があったため、F1がヨーロッパ以外でも多く開催されるようになった。その結果、各国がモータースポーツに力を注いだことで、世界各国から有望なドライバーが生まれるという現況につながったのではないだろうか。
多くの国と地域からモータースポーツの頂点であるF1に参戦するドライバーが生まれ、どの国に行っても地元のヒーローが存在するようになった。オランダ出身のマックス・フェルスタッペンはF1で大活躍し、F1母国開催を実現させるまでに至った。
残念ながら現在日本人F1ドライバーは不在だが、F1直下のカテゴリーであるF2、F3では、F1を目指す有望な日本人ドライバーが戦っている。彼らがF1に上がり、鈴鹿サーキットを熱狂の渦に巻き込むことを期待したい。