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父親とともにオリンピックを目指した フィギュア無良崇人選手の実績

2018 3/19 11:11hiiragi
無良崇人
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父親はフィギュアスケートオリンピックコーチ

無良崇人選手は1991年2月生まれ、千葉県出身。フィギュアスケートは父親の無良隆志氏に教わって3歳から始めた。隆志氏は単にフィギュアスケート好きの子煩悩ではない。元フィギュアスケート選手で、1979年、1980年の全日本選手権ペアで連覇し、1983年にはユニバーシアード・ソフィア大会のシングルで金メダルを獲得している。2002年のソルトレークシティオリンピックにはコーチとして参加した。

そんな父親に指導されて頭角を現すと、2001年全日本ノービスBクラス優勝、2002年、2003年のノービスAクラスで優勝。同世代では敵なしの快進撃を続ける。

2005年からはジュニアグランプリシリーズへの出場権も手に入れ、活躍の場を世界に広げた。その勢いはとどまるところを知らず、2005年全日本ジュニア選手権で2位に入り、全日本選手権への出場権とともに、2006年世界ジュニア選手権への出場権も手に入れた。

以降2007-2008シーズンまでジュニアで参戦して、世界ジュニア選手権へは3年連続出場を果たし、2007年全日本ジュニア選手権では優勝に輝いている。

ヘルニアからの復活

シニアになると、2008年全日本選手権で3位に入り、2010年バンクーバーオリンピックの代表候補選手に名乗りを上げた。しかし、バンクーバーオリンピックの代表枠が決まる2009年世界選手権では15位に終わった。

同選手権では、小塚崇彦選手が6位、織田信成選手が7位に入り、順位合計ポイント13位内に与えられる3枠を獲得している。2009年の全日本選手権でも3位に入っていれば、代表に選ばれる可能性は高かったかもしれない。

しかし、2009-2010シーズンはヘルニアによる腰痛のため、グランプリシリーズにも出られない状態に陥る。全日本選手権にはなんとか出場できたものの、普段通りの演技はできず、結果は10位と惨敗を喫した。満足に演技もできない中、引退も考えたという。しかし、バンクーバーオリンピックで銅メダルを獲得した高橋大輔選手の演技を見て、もう一度あんな演技をしてみたいと思い直した。

2010年、2011年は全日本選手権で5位。2012年はトロフィー・エリックボンパールでグランプリシリーズ初優勝を果たし、全日本選手権でも3位に入り、ソチオリンピックの2013-2014シーズンを迎えた。

目前にあるオリンピックに気持ちが空回りしたのかもしれない。出場したグランプリシリーズのスケートカナダ10位、NHK杯6位と調子は上がらず、不安を感じたまま臨んだ全日本選手権は6位。ソチオリンピック代表の3名には入れなかった。

父親とともに目指した平昌オリンピック

2018年平昌オリンピックは、無良選手がシニア参戦を始めて3回目のオリンピックだった。1991年2月11日生まれの無良選手はオリンピック期間中に27歳を迎える。次のオリンピックに現役でいられるかどうかはわからない。ここまで育ててくれた父親を、自分のコーチとしてオリンピックに連れていきたいという思いがあった。

しかし思いとは裏腹に、グランプリシリーズのスケートアメリカ7位、スケートカナダでは12位と成績は上がらない。そんな中、最終予選の全日本選手権を迎えた。今回の代表枠も3枠だったが、代表確定の羽生結弦選手は怪我で出場していない。残り2枠に入るためには2位以内に入る必要があったが、SPは3位、逆転を狙ったFSでも3位という結果で残念ながらオリンピックには届かなかった。

3回目のオリンピック挑戦も終わり、次はもうないかもしれない。自分らしい演技を見せられなかったことは残念としながらも、ここまでやれたことへの充実感は漂っていた。