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JFE東日本・今川優馬①「全てを受け止めて、今よりいい方向へ」 2020ドラフト候補に聞く

2020 1/25 06:00永田遼太郎
JFE東日本の今川優馬ⒸSPAIA
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ⒸSPAIA

ネガティブな意見も自身の成長に

真っ直ぐな視線がとても印象的だ。

野球少年をそのまま大きくしたような穢れのない瞳。その視線から目を逸らしてはいけない気がして、用意してきた取材用資料に一度も目をとおさないままその日の取材を終えた。

それでも、会話は弾んだ。質問に困ることがなかった。「硬」も「軟」も使い分ける彼の引き出しの広さと、懐の深さに救われた思いがした。

「どんな球が来ても、しっかり打ち返してやろう」という強い意思をも感じる彼の取材対応。それすらもトレーニングの一環で活用しているように感じるのは不思議な感覚だった。

現在、彼のTwitterには1万4,000人を超えるフォロワーがいる。

高校時代も大学時代もスター選手と言えるほどの実績を持たなかった、一アマチュア選手が、これほどの支持を集めるのは極めて異例ともいえる。Twitterではフォロワーからの温かい声や、アンチからの厳しい意見もたくさん届く。彼はそのひとつひとつにきっちりとリプを返し、自身の成長に繋げる。

彼はこう言った。
「評価するのは第三者ですし、中には良いことを書いてくれる人や『こういうこともあるんだな』と気付かせてくれるものもあります。そういうのも全部含めて返信させてもらっています。『ネガティブな意見は見なきゃ良いだろ』って言ってくれる方もいるんですけど、それすらも僕は自分の成長に繋げたいと考えているので…。全てをしっかり受け止めて、今よりもっと良い方向に向かえればって。そう考えています」

彼はそうやって自身の商品価値を高め、一人でも多くの野球ファンに自分の名前が届くように努力を続けてきた。

「後悔だけはするな」父に背中を押され強豪校へ

出身は北海道札幌市。6人兄弟の長男として育った。父は長男である彼に、今川家のルールを植え付けるよう厳しく接してきた。

「一番古い記憶だと3歳か4歳のときに『あけましておめでとう』が言えなくて、叱られた記憶がありますね(笑)僕の中ではたぶん恥ずかしさもあったと思うんですけど、『そんなことも出来ないのか!』って」

礼儀・挨拶・時間のケジメについては、特に厳しかった。食事をする際は、絨毯に正座が基本。小学生時は20時までに完全就寝がルールだった。それでも今川家のリビングは、いつも笑顔が絶えなかった。

「僕は、世界一仲が良い家族だと思っていますよ」

そう言って、彼は満面の笑みを浮かべる。その笑顔が全てを物語っている。そんな気がした。

そんな家族との思い出で忘れられないことがある。

彼の高校受験のときの話だ。中学時代は軟式野球部に所属。実績は札幌市内の区大会の決勝進出が最高だった今川だが、そんな彼にも、とある私立校から特待の誘いが届いていた。

六人兄弟の長男。家計のことを考えれば、むしろ有難すぎる話だった。けれど、今川は迷った。特待の話とは別に希望する高校があったのだ。

その高校には札幌近郊のリトルシニアで活躍した選手達が数多く進学すると風の噂で聞いていた。

「強豪校に行って、自分を鍛えたい」
「そこでレギュラーを獲って甲子園にも行きたい」

強い想いが沸き立った。

夢を捨てきれなかった彼は、両親へ素直に胸の内を打ち明ける。

すると、父は息子の夢をこう言って後押しした。
「高校選びで人生が変わる。だから自分が好きなところを選べ」
「後悔だけはするな」
その言葉に、胸がジンと熱くなった。

そうして選んだのが自宅からほど近い札幌市内の強豪校・東海大四(現在の東海大学付属札幌高校)だった。

試合に出ている姿を家族に

野球部には一般入部。地元でも有名だった中学硬式出身の選手達が同期の中に複数混じっていた。

「最初は本当に苦労しましたね。同期は30人くらいいたんですけど、自分は下から数えて5番目くらいの選手。周りはみんなシニアでやって来た選手ばかりで、本当にレベルが高かったんです。練習もめちゃめちゃきつくて、最初のうちは全然ついていけなかったです」

1年夏からベンチ入りする同級生がいた一方で、自分は一向にボールにも触れない辛い毎日が続いた。

もう、辞めたい――。

そう考えたのも一度や二度じゃなかった。それでも気持ちを繋ぎとめることが出来たのは、高校受験のときに自分を信じて、希望を叶えてくれた両親の想いになんとか応えたかったから。

「試合に出ている自分の姿を家族に見せてあげたかったんです。当時はプロに行くなんて、全く言葉に出来ない、想像も出来ないレベルでしたし、Bチームもたまに練習試合があるんですけど、まずはそこで出続けることを目指していました」

それをモチベーションに、日々の練習になんとか食らい付いた。

そんな彼に光が差し込んで来たのは2年秋になってからだ。得意のバッティングを買われて初のメンバー入り。日々の努力が報われた想いがした。

「それまではずっとBチームにいたんですけど、そのときも練習は誰よりもやった自負がありましたし、自分でもちょっとずつ上手くなっている感触もありました。だから『もっと練習しよう』と思えたのかもしれません」

背番号一桁内定と左中指骨折

一冬を越えて、そこからさらに成長すると、春を迎える頃にはスタメンで使われることも増えていった。そして春の北海道大会を前に念願の背番号一桁に内定。両親に晴れ姿を見せるまで目前の所まで来ていた。

しかし、運命は彼に更なる試練を与える。

3年春の北海道大会を目前に控えた青森遠征。八戸学院光星との練習試合で、彼は初回の守りで手の甲を痛めてしまった。センター前に落ちようとした打球を飛び込んでキャッチし、その際に手をぐしゃりと捻ったのだ。

「めちゃめちゃ痛かったんですけど、『痛いので代えてください』なんて言ったら、せっかく掴んだレギュラーを剥奪されると思ったので、我慢して6回まで出続けたんです。バッティングも右手一本で打って。でも、さすがに限界が来てしまって」

左手は手袋もつけられないくらいに腫れていた。

「もう、ダメだ」

7回の守備に入る際、泣きながら監督に自分の症状を伝えた。

「僕はバッティングが持ち味だったのに右手一本で打って、中途半端な結果しか出ていなくて、それで実際、チームにも迷惑がかかっていたので」

ベンチに下がると、ずっと涙が止まらなかった。背番号の件を直前まで両親には黙って、本番で驚かせてやろうと考えていたからだ。

「せっかく獲った一桁の背番号を台無しにしたなと思って。そのときも真っ先に出てきたのは両親の顔でした。『はあ…。なんでこんなタイミングで…』って。まだ『夏がある』と思っていたんですけど、病院に行ったら『夏も無理ですね、全治二か月です』と言われて、そのときはもう、なにも考えられなかったですね」

医者の診断は左手中指の骨折。目の前が真っ暗になった想いがした。


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