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江川選手問題が勃発した1970年代後半のドラフトを振り返る

2017 8/25 10:07cut
野球、ボール
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1975年:プロ入り断念と噂された篠塚選手が巨人へ入団

赤ヘル旋風が巻き起こり、球団創設以来初めて広島が日本一となった1975年。11月2日に訪れた広島の歓喜から2週間ほど経った11月18日に、ドラフト会議が行われた。この年、注目を浴びていたのは同志社大学の田尾安志選手、銚子商業高の篠塚利夫選手(現和典)だ。

田尾選手は同志社大時代に二刀流として活躍。日米大学野球の日本代表にも選ばれるなど、注目の存在となっていた。また、篠塚選手は持病があるために「プロ入り断念」といった報道も出ており、各球団の戦略に注目が集まっていたのだ。また、全体的に即戦力となる選手は少ないとされており、各球団ともに指名の戦略が問われる年であった。

ドラフトが始まると5球団目までが投手を選択。6球団目のヤクルトが篠塚選手でも田尾選手でもなく、高知高の杉村繁選手を指名する。杉村選手へ現役選手として大きな実績を残すことができなかったものの、指導者として開花。横浜では内川聖一選手、ヤクルトでは山田哲人選手を育てている。

ヤクルトに次ぐ指名順だった巨人は、篠塚選手を1位で指名。入団を果たし首位打者を2度獲得するなど安打製造機として巨人を引っ張った。

注目の田尾選手を指名したのは中日だった。1年目から試合に出場し新人王を獲得。西武、阪神と3球団を渡り歩き現役通算1560安打を記録し2005年には楽天の初代監督も務めている。

その他には広島1位で名球会入りを果たしている北別府学選手、阪神2位では入団拒否をしその後アマチュア球界で名を馳せた鍛治舎巧選手も指名された。駒澤大学の中畑清選手も3位で巨人入りを果たしている。

1976年:「サッシー」こと酒井圭一選手はヤクルトへ

夏の甲子園において長崎・海星高をベスト4に導いた「サッシー」こと酒井圭一選手がドラフトの注目だった。その、酒井選手は1番目の指名順だったヤクルトが真っ先に指名。高卒ルーキーながら1年目から先発で登板するなど期待を掛けられたが、1990年に引退するまでにわずか6勝(215登板)。期待に応えることはできなかった。

また、東海大相模高の原辰徳選手も注目を浴びていたが「東海大進学」を表明していたため、指名する球団はなく無風のドラフトとなる。

ドラフト1位で指名された中日・森繁和選手、日本ハム・黒田真二選手、南海・武藤邦一選手の3名が入団拒否。1位指名選手3名が入団拒否をしたのは初のできごとだった。

この年の下位指名で活躍を果たした選手には巨人・5位の松本匡史選手がいる。「青い稲妻」の愛称で親しまれ、プロ通算342盗塁をマークした。

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