川上巨人がV6達成した1970年
夏の甲子園で東海大相模(神奈川)が優勝した1970年。プロ野球では、川上哲治監督率いる巨人が日本シリーズで濃人渉監督率いるロッテを下して6連覇を達成した。
同年のドラフト会議では箕島・島本講平、岐阜短大付岐阜・湯口敏彦、広陵・佐伯和司の「高校三羽烏」が注目されていた。当時は予備抽選で指名順を決定し、奇数順位は予備抽選の1番から12番へ、逆に偶数順位は12番から指名していく変則ウェーバー方式。現在のように重複すれば抽選というルールではないため、予備抽選による運、不運が大きかった。
予備抽選の結果は南海―巨人―広島―大洋―東映―阪神―近鉄―ロッテ―中日―西鉄―阪急―ヤクルトに決まった。

各球団1巡目指名選手のプロ入り後の成績を振り返る。
岐阜短大付岐阜高・湯口敏彦は巨人、広陵高・佐伯和司は広島
1番くじを引いた南海は箕島高の島本講平を1位指名した。同年のセンバツで優勝した左腕は、プロ入り後は外野手としてプレー。1年目に2本塁打を放ったもののその後は出番が増えず、1975年シーズン中に佐々木宏一郎との交換トレードで近鉄に移籍した。1977年には126試合出場で12本塁打を放つなど、1985年に引退するまで通算828試合出場、454安打、60本塁打の成績を残した。
巨人は夏の甲子園で箕島の島本講平に投げ勝ち、ベスト4入りした岐阜短大付岐阜高の左腕・湯口敏彦を指名。荒れ球のストレートへの期待は高かったが、一軍出場のないまま1973年に急死した。
広島は「高校三羽烏」の一人、地元・広陵高の佐伯和司を指名した。同年春のセンバツ準決勝で島本講平を擁する箕島に敗れ、夏は甲子園出場を逃したが評価は不変。3年目には19勝をマークする大活躍を見せ、1977年に新美敏、皆川康夫、鵜飼克雄、内田順三との交換トレードで宮本幸信、久保俊巳とともに移籍した日本ハムでも、2桁勝利を2度記録した。1981年に高橋里志との交換トレードで広島に復帰し、1982年に引退するまで通算88勝100敗2セーブの成績を残した。
大洋は法政大の野口善男を指名した。PL学園時代は1966年センバツに出場し、法大では3季連続優勝に貢献。大洋では1年目から81試合に出場するなどユーティリティプレイヤーとして活躍した。9年間の現役生活で447試合に出場している。
阪神1位の谷村智博は通算72勝
東映は東都リーグ通算21勝をマークした中央大の右腕・杉田久雄を1位指名した。1977年オフに柏原純一との交換トレードで小田義人とともに南海に移籍。さらに1980年5月に岡義朗との交換トレードで広島に移籍し、1981年に引退した。通算141試合登板で19勝39敗の成績を残している。
阪神は鐘淵化学の谷村智博を指名した。地元・報徳学園高時代に甲子園に出場し、関西学院大では関西六大学リーグ通算20勝を挙げた右腕。プロ入り後は1976年に12勝を挙げるなど主に先発として活躍し、1979年オフに鈴木弘規との交換トレードで阪急に移籍した。通算72勝82敗5セーブをマークし、1985年に引退した。
近鉄は九州工高の右腕・市橋秀彦を指名した。プロ入り後にサイドスローに転向したが日本ハム移籍後の1976年に野手転向。1979年にはロッテに移籍したが、通算24試合に出場したのみでユニフォームを脱いだ。
ロッテは中京高の左腕・樋江井忠臣を指名したが入団拒否。卒業後に入社した三協精機時代の1972年ドラフト会議でも巨人の8位指名を拒否し、プロ入りすることはなかった。
近鉄2位で石渡茂、阪急2位で今井雄太郎、ヤクルト3位で若松勉
中日は大府高の右腕・氏家雅行を1位指名。高校時代は、ロッテに1位指名された樋江井忠臣を擁する中京に敗れて甲子園出場はならなかったものの潜在能力を高く評価されたが、一軍出場のないまま現役を引退した。
西鉄は新日鉄広畑の高橋二三男を指名した。大鉄高時代は1年先輩の福本豊とともに1965年に夏の甲子園出場。卒業後は鐘紡を経て新日鉄広畑に進み、都市対抗などで活躍した。プロでは1年目から118試合に出場し、22盗塁をマーク。1976年にロッテへ移籍し、通算491試合出場、25安打、7本塁打の成績を残した。
阪急は大昭和製紙の小松建二を指名した。高知高2年時に控えながら夏の甲子園で優勝。1年先輩の有藤通世と同じ近畿大に進み、大昭和製紙では都市対抗で優勝と輝かしいアマチュアキャリアを積んだ。プロでは強肩強打に期待が高かったが、1974年に71試合出場したのが最多。通算246試合出場で32安打、5本塁打の成績を残し、中日移籍後の1980年に引退した。
ヤクルトは河合楽器の山下慶徳を指名した。和歌山・海南高2年時の1963年センバツ2回戦で池永正明を擁する下関商に延長16回サヨナラ負け。翌1964年は春夏連続で甲子園に出場し、河合楽器では都市対抗などで活躍した。プロ入り後は1973年にフル出場して11本塁打をマーク。1979年に南海に移籍し、翌80年に復帰したヤクルトで2年間プレーして引退した。通算855試合出場で483安打、59本塁打の成績を残している。
2位以下では、中央大・石渡茂(近鉄2位)、新潟鉄道管理局・今井雄太郎(阪急2位)、三田学園高・淡口憲治(巨人3位)、電電北海道・若松勉(ヤクルト3位)、此花商高・金城基泰(広島5位)、八代東高・柏原純一(南海8位)らがプロ入り。松下電器・福間納は阪急7位を拒否、新日鉄広畑・佐々木恭介は東映8位を拒否、PL学園高・新井鐘律(宏昌)は近鉄9位を拒否して法政大に進学するなど、後にプロで活躍する選手の入団拒否も少なくなかった。
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