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ヤクルトの歴代監督と最高成績、高津監督は球団初の日本シリーズ連覇なるか

2022 9/29 06:00SPAIA編集部
ヤクルト・高津臣吾監督,ⒸSPAIA
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Aクラスが遠かった黎明期

2022年9月25日、DeNAとの激戦を制して見事にセ・リーグ連覇を成し遂げたヤクルト・高津臣吾監督。1992年、93年に野村克也監督が達成して以来、球団史上2人目の快挙を達成した。さらに、日本シリーズも連覇となれば、球団史上初の偉業達成となる。

就任わずか3年目にして、球団史に残る名将と言っても過言ではない実績を残している高津監督。では、これまでどのような監督がスワローズを率いてきたのだろうか。個性派ぞろいの歴代監督を振り返る。

ヤクルトの歴代監督"


スワローズはセ・パ2リーグ制となった1950年に国鉄スワローズとして誕生。その初代監督を務めたのが西垣徳雄だ。東京鉄道局の監督を務めた後、プロ野球の審判を経て監督に就任。初年度は選手集めが難航したこともあり、8チーム中7位に終わる。

就任2年目からは、後の400勝投手・金田正一や球団初の新人王を獲得する佐藤孝夫ら若手が活躍を見せ始める。しかしチームとしては中々上位に食い込むことができず、就任4年目の53年に初の最下位に終わった責任を取り、この年限りで辞任した。

1954年からは前年に選手兼任コーチだった藤田宗一が監督に就任。1年目に宇野光雄・箱田弘志が球団初のベストナインに入り、翌年には金田が350奪三振の世界新記録を打ち立て、町田行彦が球団初の本塁打王を獲得した。しかし、2年連続5位と、結果を残せず55年シーズン限りで退任となった。

1956年からは、前年まで四番打者として活躍していた宇野光雄が兼任監督に。初年度は年間61勝、勝率.485の球団最高成績を残し、初の4位でシーズンを終える上々の滑り出しを見せた。しかし、その後は中々Aクラスの壁を破れず4年連続の4位。就任5年目となった60年には7年ぶりの最下位となる6位に沈み、この年限りで退任した。

初のAクラス入りと度重なる球団名変更

1961年からは砂押邦信コーチが新監督に就任。飯田徳治を兼任コーチ、金田正一を主将に据えて臨んだ初年度は、7月上旬まで首位を走る快進撃を見せる。最終的には巨人と中日に抜かれるも、67勝60敗3分けで球団初の勝ち越し、そして初のAクラス入りを果たした。だが、さらなる飛躍を目指した翌年は、最下位に沈み、砂押政権もわずか2年で終焉を迎えた。

1963年には61歳の浜崎真二が監督に就任した。浜崎はNPB史上最高齢公式戦出場記録(48歳10か月)を2014年9月5日に山本昌(中日)に破られるまで、64年間にわたり保持していたことでも知られるが、監督としてはこの年4位に終わり、わずか1年で退任している。

1964年からは現役時代、投手としてパ・リーグ初のノーヒットノーランを達成した林義一が新監督に就任。しかし、エース金田と対立し、登板拒否をされたこともあり、チームは後半戦に失速し、5位に終わる。さらに、オフには金田が「B級10年選手」の権利を行使して巨人へ移籍した。

大黒柱を失ったチームは翌年開幕から低迷。4月23日には国鉄が球団経営から撤退した。4日後の27日には林監督が退任。5月10日にサンケイ新聞とフジテレビに球団経営権が譲渡され、「サンケイスワローズ」が誕生した。林監督の後任は砂押二軍監督が務めたが、最下位に終わった。

1966年からは『鉄腕アトム』を球団キャラクターに採用し、球団名も「サンケイアトムズ」に改称。新監督には温厚な人柄で選手、ファンからも愛されていた飯田徳治が就任したが、5位に低迷。翌年5月23日には休養を発表し、中原宏ヘッドコーチが一時監督代行を務めた。7月5日から復帰するも、結局前年と同じ5位に終わり、この年限りで退任となった。

1968年からは南海、巨人で通算310勝を挙げ、巨人、大洋でコーチを務めた別所毅彦が監督に就任するも、初年度は4位に終わる。翌69年の開幕前に球団名が「アトムズ」のみとなった。しかし、この年も上位に食い込むことができず、5位に終わった。

70年の年明け早々に球団名を「ヤクルトアトムズ」に変更。別所が引き続き指揮を執ったが8月に16連敗を喫した。この連敗中に別所は解任され、二軍監督の小川善治がシーズン終了まで監督代行を務めた。最終的に、球団史上ワーストの借金59で最下位に終わっている。

1971年、チーム再建の切り札として巨人、西鉄、大洋を優勝に導いた“知将”三原脩が監督に就任する。だが、初年度に2年連続の最下位に終わると、翌年も若松勉が球団初の首位打者を獲得するも4位。3年目の73年はV9を達成した巨人とは4.5ゲーム差と、球団史上でも最も優勝に接近するも4位に終わり、シーズン終了後、三原は辞任した。

ヤクルトスワローズとして再出発、広岡監督が悲願の初優勝達成

前年オフにチーム名を「ヤクルトスワローズ」に変更した1974年、監督には打撃コーチだった荒川博が就任し、借金3ながら13年ぶりにAクラス入りを果たした。しかし、2年目は4位、3年目は5位と年々順位は下降。荒川監督は成績不振を理由に76年のシーズン途中で休養し、ヘッドコーチの広岡達朗が監督代行を務めた。

その広岡は1977年から正式に監督に就任。「管理野球」を掲げ、生活面や食事面などの指導を行い、初年度に2位。そして翌78年には悲願のリーグ初制覇を成し遂げた。そして日本シリーズでも阪急を破り、日本一となった。

しかし、広岡政権も長くは続かず、翌年は不振に陥り8月14日に森昌彦、植村義信両コーチが休養、17日には広岡監督が辞任。残りのシーズンは佐藤孝夫ヘッドコーチが監督代行として指揮を執ったものの、8年ぶりの最下位に終わった。

1980年からは武上四郎が監督に就任。選手、コーチとしてチーム一筋で13年間在籍していた武上は1年目に2位の好成績を残す。しかし、翌年以降は成績が振るわず82年、83年と連続最下位。84年も指揮を執るが成績不振で4月半ばに休養を発表した。この年は結局、中西太と土橋正幸が代理監督を務め、最終的に5位でシーズンを終え、3年連続の最下位は免れた。

1985年からは土橋が正式に監督に就任した。78年のリーグ優勝時のメンバーがベテランの時期に差しかかっていたため、若手を積極起用。広澤克実を我慢して起用し続け、主力打者に育てた。ただ、チーム成績は2年連続最下位に終わったため、86年限りで辞任している。

1987からは現役時代に50勝、1000安打を記録し、2刀流として活躍した関根潤三が新監督に就任。関根も若手を積極的に起用し、のちに主力となる広沢、池山隆寛、荒木大輔らを育て上げた。89年まで3年間監督を務め、最高成績は4位だった。

野村克也の下、黄金期迎えた90年代

1990年、現役時代に史上2位の657本塁打、南海で選手兼任監督も務めた野村克也が監督に就任する。野村は当時としては革新的だったデータ重視の「ID野球」を掲げ、チーム改革に乗り出す。1年目は5位に終わるが、ルーキーの古田敦也を正捕手に抜擢して帝王学を学ばせるなど、チームの土壌づくりに終始した。

その甲斐あって、2年目は3位に躍進。そして、3年目に14年ぶりとなるリーグ制覇を成し遂げた。ここからヤクルトは黄金期を迎える。野村はヤクルトを常勝軍団へと変貌させ、98年に退団するまでの9年間で、リーグ優勝4回、日本一3回の輝かしい実績を残した。9年間の成績は628勝552敗7分けの勝率.532で、勝利数、勝率ともに球団史上1位の記録となっている。

1999年、野村の後任として「ミスター・スワローズ」若松勉が監督に就任。1年目、2年目は4位に終わるが、3年目に4年ぶりとなるリーグ優勝。優勝インタビューで「ファンの皆様、おめでとうございます!」の名言を残した。日本シリーズでは近鉄を4勝1敗で倒し、日本一にも輝いている。2005年に退任するまで、7年間でAクラス4回、リーグ優勝1回、日本一1回の実績を残した。

2006年からは古田が選手兼任監督に就任。球団名も「東京ヤクルトスワローズ」に変更された。野村ID野球の申し子・古田が指揮を執るとあって黄金期の再来が期待されたが、1年目は優勝争いに絡むことなく3位。2年目には1986年以来21年ぶりの最下位となってしまい、古田は現役引退、そして退団を余儀なくされた。

古田の後任として日本ハムでGMを務めていた高田繁が新監督に就任。1年目の2008年は5位だったが、2年目は3位Aクラス入り。迎えた3年目は交流戦で9連敗を喫するなど低迷し、5月26日に辞任に追い込まれた。へッドコーチの小川淳司がシーズン終了まで監督代行を務めている。

真中監督が14年ぶりのリーグ優勝、高津監督は20年ぶり日本一

2011年からは小川が正式に監督に就任。8月2日に球団史上最速で監督通算100勝を記録するなど首位を快走したが終盤に失速し、10年ぶりの優勝は逃した。翌年も3位と健闘を見せたが、13年からは2年連続最下位に終わり、監督を辞任した。

2015年、真中満が新監督に就任した。野村監督時代に選手として日本一を経験した真中はシーズンの戦い方を熟知しており、1年目にして見事に14年ぶりのリーグ優勝を成し遂げた。2年目は5位、3年目は96敗という歴史的大敗で6位と低迷したため、わずか3年で辞任となったが、前評判は決して高くない中でしっかり結果を残したと言えるだろう。

2018年からは、前年まで球団シニアディレクターを務めていた小川淳司が4年ぶりに復帰、1軍ヘッドコーチに宮本慎也が初入閣した。チーム再建のため、春季キャンプでは猛練習を敢行し、選手を鍛え直した。その効果はシーズンで如実に表れ、セ・パ交流戦で球団初の最高勝率を達成するなど、レギュラーシーズンで2位に入り、前年の歴史的大敗を払拭した。

迎えた2019年。前年の躍進を受け、悲願の優勝へ大きな期待がかかったシーズンだったが、球団ワーストタイの16連敗を喫するなど、またしても低迷。9月8日に成績不振の責任を取って小川監督が辞意を表明し、ヘッドコーチの宮本の退団も発表された。最終的に59勝82敗2分けの成績で最下位に沈んだ。

2020年、小川政権で二軍監督を務めていた高津臣吾へとバトンが渡された。就任1年目こそ投打ともに振るわず6位に終わったが、その経験を糧に臨んだ2021年。新たな先発ローテーションの組み方を試すなど、手持ちの戦力を最大化させることに成功し、6年ぶりのリーグ優勝、日本一へと導いた。そして2022年、最大17.5ゲーム離れていたDeNAの猛追を振り切り、球団史上2人目のリーグ連覇を達成した。

2022シーズンはクライマックスシリーズ、日本シリーズとまだまだ戦いは続く。高津監督は球団初の2年連続日本一を達成し、球史に名を刻むことができるだろうか。

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