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福井県高校野球の先駆者、敦賀高校野球部の歴史と戦績

2017 3/22 18:28hiiragi
野球
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Photo by mTaira/Shutterstock.com

福井県の高校野球の古豪・敦賀高校。かっては敦賀商業として、福井県のみならず北陸地区の代表を独占して甲子園で暴れた。ここではそんな敦賀高校の歴史や甲子園での戦績、卒業選手などを紹介したい。

夏の大会17回出場でベスト8が3回

敦賀高校は、1906年(明治39年)に敦賀商業学校として開設された。1948年(昭和23年)敦賀高等女学校、敦賀中学校との合併により敦賀高等学校に名前を変えて現在に至る。
野球部の歴史も古く、甲子園初出場は夏の大会が1925年(大正14年)春の大会が1930年(昭和5年)だった。以降、夏は17回、春は4回出場している。特に夏の大会では、初出場で準々決勝に進出するなどベスト8が3回あり、初出場から7年連続出場を果たしている。

野球殿堂入り松木謙治郎さんを擁して夏初出場でベスト8

当時の夏の甲子園は、福井県、石川県、富山県で構成された北陸地区から1校の出場だった。つまり、連続出場となった7年間の夏の甲子園は福井県が独占していた。
初出場でベスト8進出となった1925年第11回全国中等学校優勝野球大会では、2回戦から登場して、奥羽代表秋田商に延長11回5-4でサヨナラ勝ちを収めたものの、準々決勝で東京の早稲田実に4-11で敗れている。この大会には、後に大阪タイガースに入団、一時代を築き、コーチ、監督を歴任する松木謙治郎さんが出場した。松木さんは1978年野球殿堂入りを果たしている。

初出場で大敗を喫した春の大会

春の甲子園初出場となった1930年第7回大会は、16校が選抜されて行われた。この頃の代表枠はかなりいびつで、福井県の入る北信越から3校、東海3校、近畿6校、中国1校、四国2校で関東、九州、東北、北海道は1校も選ばれていない。代わりに台湾から1校が選ばれていた。
1回戦の相手は兵庫県の明石中学だ。試合は、初回に3点取られると、完全に明石中ペースとなり、12点を取られて0-12で完敗する。北信越代表の他の2校、松本商、諏訪蚕糸も1回戦で負け、翌年からは代表は1校になった。そのせいもあり、福井県勢の春の大会出場は第27回大会までの20年間なかった。

延長16回サヨナラ負けで逃したベスト4

春の甲子園では3回目まですべて1回戦敗退と、なかなか実力を発揮できなかった。初勝利は1961年の第33回大会。2年連続4回目となったこの大会は2回戦からの出場で、対戦相手は九州代表福岡県の小倉工だった。
試合は1回に2点先行されるが、5回に一挙4点を返し、4-3で逃げ切る。続く準々決勝は中国代表鳥取県の米子東。勝てばベスト4の一戦は息詰まる投手戦となり、1-1のまま延長に入る。そして迎えた延長16回、無念のサヨナラ負けを喫した。この大会以来、春の選抜大会には遠ざかっている。

ヒゲ辻こと辻佳紀選手を擁して、夏の大会3回戦まで進出

夏の大会6年ぶり14回目の出場となった1958年第40回大会には、後に阪神タイガースなどで活躍、ヒゲ辻の愛称で呼ばれるようになる、辻佳紀捕手が出場した。1回戦は沖縄県の首里に3-0、2回戦は宮城県の東北に7-0と無失点で勝ち上がる。
3回戦では京都の平安と対戦。試合は投手戦となり、平安打線を2点に抑えたものの、打線が封じ込まれ0-2で敗れてしまった。以降夏の甲子園には1979年、80年に連続出場したものの、1999年を最後に出場がない。

まとめ

福井県の古豪・敦賀高校野球部の歴史や甲子園での戦績、卒業生などを紹介した。福井県の代表を独占した時期もあったが、残念ながら、春は60年近く、夏は20年以上甲子園に出場していない。近い将来、古豪復活の姿を見たいものだ。