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42年ぶり春季神奈川大会優勝!武相高校野球部の甲子園成績と歴史

2024 5/11 06:00SPAIA編集部
イメージ画像,ⒸmTaira/Shutterstock.com
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決勝で東海大相模を下して古豪復活ののろし

ゴールデンウィークに行われた高校野球春季神奈川大会に大勢の観客が詰めかけたことが話題になった。

準々決勝の慶応vs横浜、東海大相模vs桐光学園が行われた4月28日、サーティーフォー保土ケ谷球場に詰め掛けた観衆は2試合で約1万6000人。いくら強豪同士がぶつかる好カードとはいえ、甲子園のかかっていない春季大会でこれだけの観客動員があったのは、高校野球人気の高まりと神奈川の高校野球熱の高さを物語っている。

ただ、この春の神奈川を制したのは4校のいずれでもなかった。決勝で東海大相模を9-8で下して頂点に立ったのは武相。1982年以来、実に42年ぶりの優勝で古豪復活ののろしを上げた。

全国的には名前を聞かなくなって久しいが、1960年代には夏の甲子園に4度出場。その歴史を振り返ってみたい。

1964年に甲子園初出場、翌年には聖地初星

同校のHPによると創立は1942年。「武蔵国と相模国の山野が一望に見渡せる恵まれた丘」が校名の由来という。

硬式野球部が夏の神奈川大会で快進撃を見せたのは1961年。初の決勝進出を果たしたが、柴田勲を擁して甲子園で夏春連覇していた法政二に敗れた。

その後も2年連続ベスト8と甲子園まであと一歩に迫り、ついに悲願を達成したのが1964年だった。準々決勝から横浜、法政二、鎌倉学園と強豪との接戦を制して初優勝。東京五輪開幕の2カ月前、初めての聖地で臨んだ試合は平安(現龍谷大平安)に3-6で敗れた。平安には後にプロで2215試合連続出場を達成する衣笠祥雄がいた。

翌1965年も決勝で日大高を下して2年連続で夏の甲子園に出場。初戦の鹿児島玉龍戦は9回に3点を奪って5-3で逆転勝ちし、聖地初勝利を挙げた。2回戦で東邦に敗れたが、この夏を制した三池工の原貢監督は後に同じ神奈川の東海大相模監督に就任するのだから因縁めいている。

島野修を擁して1967年から2年連続甲子園

1966年は神奈川大会決勝で横浜一商(現横浜商大高)に敗れて甲子園を逃したが、1967年は準決勝で法政二、決勝で日大高を破って2年ぶりに甲子園出場。2年生エース島野修が6試合で4完封の活躍を見せた。

島野は甲子園初戦の若狭戦でも2安打、12奪三振で完封勝利。若狭の4番は阪神入りして「浪速の春団治」と呼ばれた川藤幸三だった。武相は2回戦で土佐に敗れた。

島野が3年生になった1968年も準決勝で慶応、決勝で鎌倉学園を下して2年連続で甲子園に出場。第50回記念大会として48校が出場し、初戦で広陵に1-2で惜敗した。優勝は初出場の興国だった。

島野は同年ドラフト1位で巨人に入団。プロでは1勝のみに終わり、阪急移籍後の1978年に引退後は球団マスコットの「ブレービー」や「ネッピー」として活躍したことが知られている。

何度も立ちはだかった東海大相模

武相が甲子園に出場したのは1968年夏が最後。何度も立ちはだかったのが原貢監督率いる東海大相模だった。

1969、70年は2年連続、準々決勝で東海大相模に敗退。原貢監督の息子で前巨人監督の原辰徳が1年生だった1974年も準々決勝で対戦して5-6で敗れ、3年生になった1976年は準決勝で敗れた。

その後も神奈川大会では上位進出するものの、横浜商、横浜、桐蔭学園などに敗退。直近では2010年の準決勝で東海大相模に敗れた。この年の東海大相模は後に阪神入りするエース一二三慎太を擁して甲子園でも準優勝している。

迎えた2024年春、何度も甲子園を阻まれてきた東海大相模を破って1982年以来42年ぶりの春季大会優勝。5月18日から始まる関東大会に出場する。さらにその先には56年ぶりの甲子園をかけた暑い夏が待ち受ける。

パンチ佐藤やヤクルト・塩見泰隆、ボクシング元世界王者の星野敬太郎、タレントの出川哲朗ら著名人も多数輩出している武相。聖地で「BUSO」のユニフォームを見たいオールドファンは多いだろう。古豪復活なるか注目だ。

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