「1日2時間」の制約の中で最も注力した練習とは
新型コロナウイルスで夏の甲子園大会がなくなり、全国独自の代替大会を戦うことになった2020年、チームを率いる監督はどんな思いで選手たちをまとめあげようとしていたのか。『コロナに翻弄された甲子園』の著者である小山宣宏氏が、龍谷大平安・原田英彦監督の当時の状況について、詳しく綴った内容である。
2020年夏の甲子園大会の中止が5月20日に発表されてから19日後の6月8日、京都府高野連は京都市内で会見を行い、中止となった高校野球選手権大会・京都大会に代わる独自の大会を開催することを発表した。
8ブロックによるトーナメント方式で、ブロックごとの1位を決める。7月11日から26日の平日を除く8日間で行い、7イニング制で8回以降はタイブレークを採用し、平安はAブロックから出場することが決まった。
これまでのように練習は存分にはできないままだったが、代替大会が行われるだけでもありがたいと思えた。これは龍谷大平安を率いる原田英彦監督だけではなく、選手全員が同じ思いだった。
ただし、練習時間は「1日2時間」と決められていた。これは京都府と京都市の両教育委員会から発表された「府立と京都市立の高校の部活動は原則2時間」というガイドラインに沿ったからだ。
コロナ以前は授業が終わってから16時から20時くらいまで練習していたのだが、コロナ禍では「18時まで」でスパッと練習が終わりとなってしまう。しかもこの3カ月もの間、まともに練習すらできていない。
そこで原田は、限られた練習時間のなかで打撃練習に多くの時間を割いた。学校の休校期間中、どんなに近所で練習をしていたと言っても、バットを思い切り振ってボールを飛ばす練習はほぼ全員の選手ができずにいた。どんなに投手が抑えても、打てなければ勝てない――。原田自身、熟考した末の練習メニューだった。
選手たちにTシャツをプレゼント
一方で原田は、「選手たちにTシャツを作ってあげよう」と考えていた。1年生から3年生までの100人分のTシャツを、原田が自らデザインして制作してあげたものを贈ろうと決めていた。
これに賛同したのが、現在プロ野球で活躍している平安OBの現役選手たちである。炭谷銀仁朗(2005年度卒・現楽天)、酒居知史(10年度卒・現楽天)、高橋大樹(12年度卒・元広島)、高橋奎二(15年度卒・現ヤクルト)らが、「僕たちにもぜひ協力させてください」と言ってくれた。
プロで稼ぎ頭の選手が多くお金を出資して、後輩たちを陰ながらサポートしていきたいという彼らの粋な申し出に、原田は「本当にありがたい」と心から感謝した。
今まで体験したことのない、一言では表現できないほどの苦しい思いを抱えながら、「甲子園出場」という目標がなくなったなかで日々練習に励む選手たち。原田自身ができることは、彼らの姿を見守ることと、「彼らがここで野球を終えて何年かした後に何らかの思い出になれば」という思いからのTシャツ作りだった。
実際にTシャツが完成し、プロ野球に進んだOBたちの協力も得たという話を選手たちにすると、全員がオオッと驚き、直後に笑顔を浮かべた。自分が今できる精いっぱいのことだったが、みんなが喜んでくれたことで原田も安堵していた。
京都府独自大会では他の追随を許さず優勝
大会が始まると平安は快進撃を続けた。初戦の京都工学院に4対0で勝利すると、続く洛星を10対0、嵯峨野を7対0、最後の京都成章との試合では7対0と、投手がオール完封勝ちで見事にAブロックを制した。
ハイライトは最後の試合だった。この大会は「オール3年生で戦う」と原田は決めていたのだが、先発の右腕・西本晴人が5回を無安打に抑えると、2番手の左腕・坂尾浩汰、3番手の右腕・松本樹紀が1回ずつを無安打に抑え、ノーヒッターリレーを完成させた。原田はこの試合の直後のインタビューで、
「最後に一番いいゲームができた。コロナで目標が奪われた彼らもやるせないと思う」
そう言うと、目を潤ませた。この後、選手たちと話したとき、涙を流している者もいた。甲子園出場の夢が果たせなくなった直後は、決して涙を見せなかった選手たちだったが、代替大会だったとはいえ、「できる力を存分に発揮してやり終えることができた」ことに安堵し、達成感を味わった末の涙だったのではないかと原田は感じていた。
同時に「これで彼らも次のステージへ進めるはずだ」と原田自身も胸をなでおろしていた。
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