プロの夢実現もネット掲示板の誹謗中傷に傷心
元日本ハムの投手、ダース・ローマシュ匡氏が野球人生を振り返るSPAIAちゃんねるの最終回。龍谷大平安高校野球部出身の「SEOLY(セオリー)」こと株式会社New Wing代表取締役の背尾匡徳氏と、株式会社グラッドキューブのCEO金島弘樹が進行役として、ドラフト指名されてから現在までを聞いた。
≪【動画】ダース・ローマシュ匡④坂本勇人との試合前夜に号泣―SPAIAちゃんねる
2006年の高校生ドラフト。ダース氏は日本ハムから4巡目指名を受けた。小3で嫌々始めた野球で甲子園に出場し、「プロにならないと家族が死んでしまう」と使命感に燃えて目指したプロ野球選手の夢がついに実現した。しかし、ダース氏は傷心だった。
「ネット掲示板にいろいろ書かれたんです。ダースは県外から来てるのに調子に乗ってるとか、岡山から出ていけとか、死ねとか。お金が入って親に恩返しできると思ったけど、これだけ頑張っても叩かれるんやと思うと寂しくなって、野球に対して冷めてしまいました」
4季連続で甲子園出場してメディアに取り上げられることも増えたため、知名度の上昇とともに誹謗中傷も増えていった。人知れず努力を重ねてきた結果がこれかと思うと、ダース氏は心に深い傷を負った。「正直、5年前くらいまで引きずってました」と明かしている。
「岡山のダルビッシュ」が本物と運命の出会い
しかし、プロに入ると運命の出会いが待っていた。2歳上のダルビッシュ有。2年目の2006年に12勝、翌2007年には15勝を挙げ、日本ハムのエースとして君臨していた。
ダース氏はハーフの長身右腕という共通点から、高校時代「岡山のダルビッシュ」と呼ばれていた。
「自分でダルビッシュ2世と思ってたんですが、初めて見た時に、アホみたいなこと言ってたなと思いました」
雲の上の存在に思えたダルビッシュだったが、やがて2人の人生は交わっていくから分からない。一緒に自主トレをするようになり、少しずつ「ダルビッシュイズム」を吸収していた時、右肘痛がダース氏を襲う。2010年にトミー・ジョン手術を受けたが、翌2011年オフに戦力外通告を受けた。まだ22歳の時だった。
失意のダース氏に、ダルビッシュは「俺のマネージャーになるか」と打診してくれた。しかし、ダース氏は返答を保留。これまで日の当たる道を歩いてきただけに、簡単には受け入れられなかった。
戦力外通告から荒れた1年間、そして…
ダース氏の生活は荒れた。毎晩焼肉を食べ、酒を飲んだ。プロで稼いだ金は1年間で使い果たした。
そんな時、付き合っていた現夫人が子供を授かった。当時のダース氏は無職。「俺、働いたことないから怖い。ごめん、無理」。ダース氏がそう告げると、夫人は「分かった。一人で育てる」と覚悟を決めた。
帰宅したダース氏は自責の念にかられた。「女性は強いなと思いました。それくらいの気持ちがないと俺も生きていけないと思いました」と振り返る。
悩んだ末、腹をくくったダース氏は、働き口を求めてダルビッシュの父・ファルサさんに会いに行った。
「もう一度、チャンスをください」
父親として生きていくことを決めたダース氏を、ファルサさんは受け入れてくれた。
その後、「ダルビッシュミュージアム」の館長も務めるなどサラリーマン生活は7年目。子供は6歳になった。ダース氏が7年前の自分に言いたいこと、そして、新型コロナウイルスで甲子園が中止になった高校球児に言いたいことを動画で吐露している。天国も地獄も知るからこそ、その言葉は重い。野球が好きな全ての人に聞いてほしい。
スパイア [SPAIA] ちゃんねる
【対談⑤】元日本ハム ダース・ローマシュ匡 ハムファイターズで運命のダルビッシュ有選手との出会い【完結編】